白川郷/岐阜県大野郡白川村荻町
9月15日、お昼過ぎに白川郷に到着。
青い空を、しばしば灰色の雲が遮る。そろそろ天気は雨天に傾きつつあるようだ。それでも行楽にはうってつけの休日であり、白川郷には多くの観光客か訪れている。
世界遺産に登録され、その名も知られた白川郷である。
往来する人の賑わいから、この白川郷には相応の観光的経済効果がもたらされていることが想像できる。それが白川郷の景観を守るため、少なからず貢献しているはずだ。
もう二十年近く昔のことになるが、深夜のラジオに耳を傾けていた時のことを思い出す。白川郷かどこだったか、何にしても合掌造りの家屋保存について、女性知識人が声高に訴えていた。
曰く、合掌造りは現代生活を送るのに不便だからと改築が進み、伝統的風景が消えつつあると。そして女性有志者は次のように自分の主張を続けた。
「生活が不便だからと伝統的風景が改築されるなら、法律で改築できないようにする必要がある。過激だけど、そうしないと伝統的風景は守れない。」
確か、そんな内容だったと思う。
その主張に反感を感じた。
年に数回訪れるかどうかわからない人にとっての『伝統的風景』、自らは存分に現代文明の利便性を享受しながら、その数日の感傷的風景のために、そこで生活する人の切実な思いを否定する。
茅葺き屋根の葺き替えには数百万の費用がかかる、当時の私にそれだけの知識は無かったが、それでも、伝統的家屋で生活するための苦労は大きいのだろう、そう想像するだけ頭はあった。
この課題を解決するための安易な方策として、国が家屋の集落を買い上げ維持し、官営のテーマパークとするもののがある。いわば国立公園の集落版といった考えだ。
しかし、自然任せの景観が対象となる国立公園とは違い、集落には生きた人の生活がある。それがあって始めて集落の景観が維持されはずであろう。
国が「不動産」を買収し、それを維持したところで、人の暮らしや営みまで管理することはできない。仮に何らかの補助政策でそういった暮らしを再現できたとしても、山村で暮らす人間の伝統や知恵や心意気、そういった諸々の「スピリット」まで管理することは不可能だろう。
そこまで、思い、気がつくことがある。
街を眺めて、感ずる風景とは、その地で生きてきた人々のスピリットの現れなのだと。
もし何らかの伝統的風景を守っていこうとするのなら、まずは、そこに住む人々のスピリットがなんであったのか紐解くことが必要である。そして、そのスピリットが明らかになるのなら、次に、それを現代経済にアダプトさせる工夫を試みる。
このような過程の先に、ローカル経済の再生があるのだと思う。
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