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「火怨」をミリタリー的に考察する『大和朝廷VS古代東北 三十八年戦争』 


 以前、紹介した『火怨』では、蝦夷の戦いを小説の世界でイメージをふくらませてくれた。今回紹介する『大和朝廷VS古代東北 三十八年戦争』では、軍事学的側面から、蝦夷の戦いを考察している。
 これを掲載しているのは『歴史群像2月号』で、ミリタリー色の強い歴史雑誌である。BS時代劇で『火怨』が始まったが、今回特集は、それの便乗であろう。
 この特集では、基本的史実をたどりながら蝦夷と大和朝廷の戦いを解説していくが、随所にミリタリー的解説が加わり、私の知的好奇心を唸らせていく。

例えば

「地図を見ると、九州南端の鹿児島、同西端の長崎、海を隔てて朝鮮半島の金海、そして多賀城などが、朝廷の主都であった平城京や長岡京から半径600キロメートル圏の内外に存在する。このラインこそ、当時の大和政権が統治を可能としていた地域の限界であり、圏内の支配地がすなわち日本だった。」


 といった具合だ。ミリタリー的知識を持つ者ならば、このような大和政権の圏域を半径距離で示す記す意図が、兵站(ロジスティック)にあることは容易に想像がつくであろう。
 8世紀における大和朝廷の蝦夷征伐が宮城県中央の多賀城から始まり、岩手県中央の志波で停滞したが、これも兵站ラインが限界に達したと考えれば、科学的にも合理的な解釈ができそうである。
 ちなみに、別のページでは「太平洋戦争の絶対国防圏」が特集されており『歴史群像』では、このような視点から、各時代の戦記物に視点を向けているのである。

 もう少し内容を紹介してみる。蝦夷最大の戦いとなった巣伏の戦い(785年)では、下記のような考察がある。

「はじめに朝廷軍の総兵力は5万2800余人であったと述べたが、あとに発せられた紀古佐美の奏上文から、実際に出陣した軍勢は2万7470人、他に輜重兵が1万2440人、これらを合わせても4万人弱の兵力だったことがわかる。そのうち、甲冑を装着した兵士は『続日本紀』に記された甲冑の製造数や輸送数から推測するに数千人であり、大半は地方から徴募された員数合わせの兵隊で、敵地での野戦では、ほとんど役に立たなかった。」


 そして朝廷側の正面兵力をおおよそ2千と推測し、アテルイ率いる蝦夷軍が大勝した巣伏の戦いの解説が続くわけだが、蝦夷軍の正面兵力は朝廷側に記録がある。その内訳は囮となる遊軍が3百で、主力軍が8百、合計で1千を少し越える程度であった。
 これは朝廷軍の半分程度となるが、この数字を見て朝廷軍有利と判断するのは素人であり、ミリタリー的知識があれば、即座に蝦夷軍有利と判断できるはずだ。

 なぜならば、この戦場は朝廷軍にとってアウェイであり、蝦夷軍にはホームとなる。攻め入る側は、守る側の三倍の兵力を用意せねばならないのが「攻撃三倍の法則」であるが、その朝廷側には二倍程度の軍勢しかない。これでは数が足りず、朝廷軍の負けは必然となる。

 むしろアテルイ率いる蝦夷軍が、これだけの軍勢を集めるだけの経済力を有していたことは刮目に値し、経済学的視点による蝦夷社会の実態解明が待たれるところであろう。
 何より、自軍が有利な地点まで朝廷軍を誘い出したアテルイの戦略と諜報力が勝利の要となったであろうことは論を待たないし、自らの大地を守ろうとする蝦夷軍と、嫌々徴募されながら大地の果てまで連れてこられた朝廷軍とでは、そもそもの志気が違ったはずである。

 今回の特集では、朝廷軍の弓は曲射で射るが、蝦夷軍のそれは直射で威力が大きかったことなど意外な史実にも触れられていて興味深いが、コラム欄にあった兵站線にかかる分析は、大和朝廷と蝦夷の抗争史を考察する上で重要な基礎データとなるので、以下に記録しておく。

 延暦8年(789)6月9日の奏上文を見ると、朝廷軍の蝦夷征伐が、補給との戦いであったことがよくわかる。距離について補足すると玉造柵-衣川間は約50km、衣川-志波間は約75kmなので、進撃速度は1日あたり12.5kmとなる。
 玉造柵-衣川柵の往復で10日、輜重兵が一度に輸送でくる兵糧は11日分しかないということは、衣川の進撃までに輸送した兵糧をほぼ消費してしまうので、それ以上の進撃は無理だと訴えているのだ。
 征伐軍2万7470人が1日に食する兵糧が549石ということは、1日の消費量が実に1人当たり2升に相当する。だが、明治陸軍でも支給米は1日に6合であり、あきらかに支給量が過多であることから、兵糧の横領が横行していたと考えられる。


 在野の歴史学は、未だ博物学的なレベルに留まっている印象を受ける。もっとマクロ経済学や軍事学、地政学的視点を加えれば、今まで不明だった史実が、さらに明らかになるのではないかと前々から感じているが、今回紹介した『大和朝廷VS古代東北 三十八年戦争』の特集は、そのような思いを前進させてくれる意味で、大変貴重な特集であった。



注)上記のうち、茶色部分は、『歴史群像(2013年2月号)-大和朝廷VS古代東北 三十八年戦争』(発行:学研パブリッシング / 該当部分:福田 誠 著)から引用しております。




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カテゴリ : 蝦夷の歴史
2013-01-27(Sun) | コメント : 0 | トラックバック : 0

『アイヌの昔話』と、アイヌ語地名 


 蝦夷の記憶、東北に残るアイヌ語地名を調べていると、ある疑問に突き当たることがある。それは、川に関する地名がずいぶんと多いことだ。
 例えば、アイヌ語地名の南限と言われる宮城県北部でも保呂内、鎌内、年内、字内、舞根、西内、林内、混内、井内、案内、鬼首などがある。これら「ナイ、ベツ」地名、はアイヌ語の川を意味するとされる。

注)以上の地名は、アイヌ語の可能性があるというだけで、本当にアイヌ語に由来するかどうかは、別途検証が必要である。


 たぶん、自然の原野に糧を求めた民であるのだから、生活も川と密着しており、ゆえに川に関する地名を多く残したのだろうことは想像できる。それにしても山に関する地名に比べれば、圧倒的に川に関する地名が多いのだ。

 いろいろなアイヌ語地名の研究書なども目を通したが、このあたりの事情を記したものはあまり目にしない。そんな印象を抱いてから、数年経ち、『アイヌの昔話』(平凡社 萱野 茂 著)を読んでみた。なるほど、川に関する地名が多くなるわけである。

 著者の萱野茂氏はアイヌの出身で、子ども頃に聞かされたアイヌの昔話、この本で紹介している。昔話ではあるが、アイヌの神々やイナウとの関係、熊や鹿、キツネといった動物を通じながらのアイヌの思想や信仰があり々と描かれているし、山菜の鹿肉、魚などの食文化などにも触れられており、興味深くもある。

 この昔話の少なからずが、川を目印にして、その物語の位置関係を説明している。

例えば

・かねてうわさを聞いていた石狩川の上流に住むアイヌのとろへ・・・

・私は石狩川の中ほどに、父と母と、そしてわたしの三人でくらしていたひとりむすめ

・この川のずっと上流に住んでいる。


 このように、川の上流や中ほど、川尻(河口)など、川で位置関係を説明している。
アイヌ語地名では、ぺンケ(川上の)、パンケ(川下の)はなじみの深いところである。そして、

・にいかっぷ川の川尻に暮らしている

・これから川岸を通って、ずうっと上流へ向かって歩くと、お昼を過ぎたころに広い砂利原に出る。

・母に言い聞かされた広い石原に出ました


 などは、サッピナイ(乾く川)、オサナイ(河口が乾く川)を連想される。この際、サツ(乾いている)とは、乾期に水の流れが少なくなるとの意味だが、そういった所は大概が渇水期に流水が伏流する砂利川だから、この際、サツとは砂利原と理解しても差し支えないだろう。このアイヌの昔話では、川の砂利原が位置関係の目印として登場している。

・ぴない(函川)にっていて、沢の中を歩くことができなくなり、沢辺の崖をはい上がりました


 ピナイという地名は秋田県にもあり「比内鶏」で有名だ。実際、秋田県の比内が、このアイヌの昔話のように、函川(険しい谷筋?)であるのかどうか?機会があったら、訪ね歩いてみたい。

・わたしは舟に飛び乗ると、かいを手に持ち、上流目指して漕ぎ始めました。わたしたちの川、石狩川は、大きな川なので流れもゆるく、かい一丁でかなり早く漕ぎ進むことができます。しばらく漕ぎ進むと、うわさに聞いた村の船着き場がありました。いつものように、舟をつなぐ綱もほどきやすく・・・


 北海道の上磯町には、矢不来という地名があるが、これはもともとヤンケ・ナイ(陸揚する川→川で舟の積荷を陸揚げするところ)だったらしく、これがヤギナイとなり、そして矢不来になったと言う。
 アイヌ語地名の本家、山田秀三によると、アイヌ語で舟をチプと呼び、チ・トュラシ・ペッ(舟・上る・川/舟で遡れる川)という地名もある。
 その外にも、アイヌの物語では、川と生活が密着している話が登場しており、

・ずうっと前に、わたしたちふたりで丸木舟に乗り、鮭をとろうと川を上がっていくと、舟ざおが音もなくふたつに折れたので・・・


 なるほど、このように太古の蝦夷も川を小舟で行き交い、各所に川の特徴を記したアイヌ語地名を残していったのだろうと思えてくる。蝦夷を研究するためのヒントが、アイヌの昔話には多く残されているのである。


注)上記のうち、茶色部分は、『アイヌの昔話』(1994.9.14 初版 /萱野茂 著/発行者 株式会社 平凡社)から引用しております。



 
カテゴリ : 蝦夷の記憶
2013-01-26(Sat) | コメント : 0 | トラックバック : 0

旧石器捏造事件(宮城県北での出来事) 


 もう過去の事件となり、忘れ去られつつあるが、十年以上前に、宮城県を舞台とした旧石器発掘捏造事件がある。この事件は、宮城県でも県北地方が主な舞台で、私の生活圏内とほぼ重なる。
 今一度事件の概要を述べるが、宮城県北地方をフィールドとして活動した在野のアマチュア旧石器研究家に藤村新一氏がいた。彼の実績は、考古学の常識を覆して、金字塔を打ち立てるが、しかし、その実績の多くは捏造であることが暴かれる。これにより、日本の考古学会の権威は、著しく失墜したのである。

 今月の『新潮45号2月号』(石の嘘塔-藤村新一の「大発見」-上原善広 著)では、この事件の経緯と背景を綴っている。

 この事件を振りかえって痛感せずにいられないのは、考古学研究者なるものの、意外なほどのプロ意識の欠如だ。それは、名誉欲にとりつかれたアマチュアの捏造行為を、ついに見抜けなかったことで裏づけられる。

 もちろん、物事を捏造する人間は良くないが、そのような人間は世の中にいくらでもいる。そしてその捏造は、必ずしも悪意により為されるばかりでなく、人間関係の延長から生じる『善意』で為される場合もあるからやっかいだ。しかし、それを見抜くのがプロではないのか?

 以前紹介した偽書「東日流外三郡誌」事件では、さすが奇天烈すぎて、一部大学の研究者を除き、このような奇書に飛びつく学術研究者はいなかった。しかし、この旧石器捏造事件では、既存の考古学の権威そのものが、捏造石器にお墨付きを与えてしまっていたのである。

 私は以前、自然保護関係の活動をしていたこともあり、その分野に関係する学術研究者と意見交換したり、調査データを提供したことが少なからずあった。このような自然保護分野の研究フィールドは、研究室内だけで全うできず、市井の人々と意見を交わしながら研究が進められる場合が多いようだが、その際に、学者のプロ意識の有無について考えさせられる場面にしばしば出会った。

 一般にこのような学者は、自分の研究分野における何らかの仮説を検証するため、野に入る。そして、自らの仮説を補強できる事象に出会えれば成果ありだが、森羅万象は、そんな単純ではない。自分の仮説と反対の事象と出くわすことも多く、むしろ、そっちのほうが多かったりもするものだ。

 そのような時に、その学者のプロ根性が試されるわけで、あっさりと自説を撤回する学者は潔いが、それだけでは根性に欠ける。なぜ自分の仮説と異なる事象が生じているのか、相手は市井の人々だったりするので、頭を下げつつ、しかし人様への疑いを持って、何事かを調べ廻らねばならない時もある。
 場合によっては賛同者や既存の権威と相反する行動もとらねばならぬ場面もあるが、そういった際には「共感力」とか「人間力」とか、そのような人間本来が持っている優しい心が邪魔をする。あるいは、野に入ってから今まで自分が蓄積してきた様々な意味での「財産」を失いたくないとする、弱い心だって芽生えてくる。

 しかし、これらを乗り越えて、おぼろげだった事象が始めて明らかになっていくわけで、これができるかどうかが学術研究者のプロ根性となろう。私が出会った中で、でここまで出来る研究者は限られていたように思う。自分達の派閥や仲間内の空気の中で安穏としている人も多いし、それ以前に、自分の仮説と反対の事象と出くわしても、その事象を認めなかったり、わかったようなわからない屁理屈でその場を煙に巻こうとする輩も少なくない。

 話しは、旧石器発掘捏造事件に戻る。

 この事件では、考古学の定説覆す発見が相次いでいた以上、当然、藤村氏の実績に疑いを持っていた研究者は少なからずいたはずだ。そうであれば、早いうちから、その「事象」を明らかにする努力をしておくことで、毎日新聞に先を越されず、学術団体自らが捏造事件を暴くことが可能だったはずだが、それが出来なかったのである。

 この問題の本質には石器の年代測定といった高度な技術的課題があったとは思えない。「共感力」や「人間力」、蓄積してきた財産喪失の恐れ、そういった人間の弱い心にのみ、問題の本質があったように感ずるのである。


 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
2013-01-26(Sat) | コメント : 0 | トラックバック : 0

平成23年産の備蓄米 放出します。 


 こんにちは、ライスフィールドのマスターです。

 懸念された2012年問題は何事もなく経過しました。
 本日も地球は24時間平穏に自転しており 、無事に、新しい年を迎えております。

 幸いにして地球の危機は起こらなかったようです。

 備えあれば憂いなし。

 昨年は、いざという時の備えとして、2011年産(平成23年産)米を備蓄してましたが、どうやら杞憂だったようです。このため、1年間、倉庫に寝かせておいた「平成23年米」を値引きし、出荷することといたします・・・

 と言うのは、冗談で (^^;

平成23年は、原発事故の影響もあって、豊作だった割には、在庫が生じてしまいました。
(^^; (^^; (^^;


 1年の古米になりますが、プライドを持って、自然栽培で育てたお米です。


 kgあたり100円値引きで、ご注文承りますので、購入を希望される方は、下記までメール下さい!

  ライスフィールドのお米、ご注文はこちらから
 

 下記に、平成23年産米の生長過程を、改めてご紹介します。



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 平成23年4月9日 東日本大震災から1ヶ月近くが過ぎました。原発事故の影響で、いろいろ不安がありますが、それを払拭するためにも毎年の仕事を淡々とこなす。
 雪の多い3月でしたが、4月に入り、乾燥した天気が続いたので、二山耕起も順調に進みました。



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 平成23年4月25日 自然栽培の理想を一歩進めるため、苗床には田んぼの土を用いることを決断。土のフルイ分けと土運びは、結構な重労働でした。



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 平成23年7月1日 田植えから一ヶ月経過、その年の5月には異常とも思える低温の日がありましたが、6月頃から気温が安定。稲も順調に生育しました。



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 平成23年7月16日 本格的な猛暑の夏となる。この太陽の力を受け、見違えるほどに稲葉が広がる。少しだけ豊作の予兆を感じるが、稲の生長はまだまだこれから。



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 平成23年9月7日 昨年は自然栽培の稲作がうまくいかず大幅に収量が減ったが、今年はとりかえせる。そう確信した秋の田んぼでしたが、各地から、米の放射能検査の話題が聞かれるようになった。



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 平成23年10月18日 無事稲刈り終了、満足のいく出来映えで、後は「おてんと様」に仕上げの乾燥をお願いする。テレビから「新米から基準値越えの放射性セシウムが検出される。」といったニュースが聞かれるようになった。

 後日、ライスフィールドの米の検査結果が得られる。

 結果は3.7ベクレル、出荷規制の基準値100ベクレルは大幅に下回るが、数値が出るだけで、世間は不安を感じてしまう。

 地球の未来を考えるより先に、私の米の販売問題が2012年問題となって立ちふさがったのでありました



       
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カテゴリ : 稲作
2013-01-20(Sun) | コメント : 0 | トラックバック : 0

アイガモの鴨南蛮うどん 


 こんにちは、ライスフィールドのマスターです。
 冬の定番メニュー


 『鴨南蛮うどん』 


始めてます。



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 鴨は加美町の有機水田で除草にがんばったアイガモをゆずりうけ、うどんは美里町の製麺会社の者を使ってます。

 この鴨南蛮うどんの一番の魅力は、なんと言っても。
 うどんから立ち上がる湯気  ですね。

 この湯気を動画でお伝えします。







外はすっかり冬景色ですね。



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 冬のライスフィールドもお楽しみ下さい!



        
レストラン「ライスフィールド」
        


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農商工型新年会(お米の明日を考える) 


 平成24年1月13日 お昼から、本ブログ仲間の新年会をました。
 場所は、いつもの色麻町「ライスフィールド」です。

 で、それぞれの取り組みが順調に推移しているかどうかは別としながらも、最近は何かと忙しく、顔を合わせる機会も少なくなった同志たちですが、久々に顔を合わせました。 

 それで、話題も、同じ同志ゆえ、久々に稲作の話題(男性部門)とか、お米の加工とか(女性部門)、そんな感じになるのですが、とりあえず写真。



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 ササニシキで造った煎餅
 提供:木村農園


 雷おこし風の煎餅ですね。ポテチに代わる地産地消型スナックを目指してもらいたいところです。カロリー計算で、ポテチよりヘルシーなら、対抗可能かも。なにはともあれ、農商工連携の成果です。




 続きまして、お米のポン菓子をフリーク代わりにした三部作、いずれも木村農園の作品です。


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 米ポンをフレー代わりのパフェ

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 米ポンをフレー代わりのコーンスープ

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 こちらは、米ポンを入れたぜんざい

 どの作品をとっても、農商工連携の可能性を十分に感じさせる出来映えです。




 今度は、お米ではありませんが、以前から応援している桑茶を用いた和菓子。年末に岩手県のつなぎ温泉「四季亭」で発見。買ってきました。


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 桑茶の農商工連携も完成の域に達してきました。ほんのり桑茶風味の餡をクズで包んでいます。上品な味わいです。




 こんな感じで、飲み食いしながら、それぞれ、今年の稲作の抱負を語り合いました。



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子ども達は、元気に外で雪だるまを作っているのでありました。

今年の皆様の豊作をお祈りしてります。


 

気仙沼市の街並みと復興の眺め(その2) 

その1から続く)

 被災地の復興が遅いとの批判を良く目にする。確かに遅く感じられることも多いが、しかし「早急なる結論は必ず過ちを含む」との教訓もある。



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地盤沈下で水没した土地が干潟となり、鴨が泳いでいる




 震災後、1年間は、まずは生活の仮復旧に全力が注がれ、街の復興を考えるには、様々な事物や条件が流動的であった。
 1年経ち、ようやく自らの街を考えるゆとりが出てきたが、それまでにいくつかの復興事業が、スピリットとは別のところでいくつか起動し始めていた。それは各省庁毎に計画される復興事業であったり、被災地支援を目的とした大学や各種民間団体の街づくり構想であったりである。



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高校跡の敷地にガレキ処理場が建つ




 震災2年目は、それら様々に起動し始めた取り組みと、地域のスピリットとの「すりあわせ」に要する動きが復興の主体になったと思う。一様にコンクリートの壁に覆われる防潮堤計画に意義を称えた気仙沼市の有志で取り組まれた「防潮堤を勉強する会」なども、その現れだったのではないか。



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気仙沼港




 地域に根を張ったスピリット、それは金太郎飴の如く、どこでも同じように提供される国家行政基準と合致するものではないし、外部から訪れる一時的滞在者により生み出されるものでもない。
そこに住む人間自らが、その存在に気づき、そして反芻し、さらに体系化することで、外部の人間に表現しうるスピリットが確立される。



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 養殖筏も増えてきた。平成24年は良質のワカメが豊漁だったが、本格的な養殖の復興はこれからである。



「漁民はね、根は一匹狼でね。なんたって、自然にある魚を穫る穫らないかは、自らの力量に係っているわけでね。」

「だから、基本は競争社会なんですよ。隣人の話し合いで物事を決めてくのがあんまり得意じゃない。だから、○○組合って言われてもね~、う~ん?どうかな?」

 過去、何百年と漁業を主体に生きてきた伝統があり、物事の考え方も、この伝統をベースとして培われている。それを変えろと言われても、おいそれと、と言うわけにはいかない。



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気仙沼港を見つめる猪狩神社




 気仙沼市に限らず、日本の漁業に関する課題は多い。そのことは、今回の震災を通じて浮き彫りとなったが、「業」としての形態は時代の変化に対応していかねばならないが、それにより培われてきたスピリットを変えるのは容易ではない。むしろ、それをもって、新たな時代に対応したほうが得策である。

 先に紹介した「防潮堤を勉強する会」この勉強会は、見事に行政を動かした。そのやり方の根底には、気仙沼なりのスピリットがあったように感じられる。漁業の街には、漁業の街なりの復興のやり方があるのだ。

 震災からの復興とは、ローカルスピリットが何であるのか、真剣に考えさせられる出来事でもあるのかもしれない。


 
カテゴリ : 街並み
2013-01-14(Mon) | コメント : 0 | トラックバック : 0

気仙沼市の街並みと復興の眺め(その1) 


 東日本大震災が過ぎ、二度目の冬を迎えた。
 仕事の関係もあり、被害を受けた宮城県の気仙沼市や岩手県の陸前高田市を訪れる機会が多い。3月11日の震災後、ガソリン状況が悪化し、何事においても自家用車での移動が困難になったが、4月に入ると、それも改善していった。

 震災後、始めて気仙沼市を訪れたのは、ゴールデンウィークの頃である。街全体がほぼ壊滅した南三陸町や陸前高田市に比べれば、気仙沼市の街は大部分が無傷のように思えた。
 これは私が国道45号を通りながら市街を眺めたからである。気仙沼の街は海に面したわずかな平地を丘陵が取り囲み、そのさらに山際の外周を45号が取り囲む。このように45号は高台にあるから、その沿線を通過するだけなら、被害を受けた街に出くわすことが少ない。甚大な被害を受けたのは、気仙沼港周縁にある。

 震災当日、気仙沼港大火の映像がテレビで流れた。

「なんだこれは???これでは、気仙沼は全滅じゃないか・・・」

 そう、つぶやいたことを思い出す。その火災は気仙沼市の鹿折地区が中心であった。現在、この地区には津波に打ち上げられた大型漁船が残置されている。そしてこの漁船を今後も残置し、震災のモチーフとする動きがあるが、異論は多い。



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 街の風景であるが、平成23年の夏頃には廃墟となった建物が残ったままだった。現在(平成24年12月)は、そのような廃墟の撤去も進み、基礎コンクリートだけが残る「平場」の風景となっている。



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 震災直後から現在までいずれの時点でも、始めて被災地を訪れる者は、その被害の甚大さに驚くが、ずっとそこで風景を眺めている者であるのなら、

「道路が通れるようになった。」
「瓦礫が片づいてきた」
「被災建屋が無くなってきた。」
「基礎撤去も進んできた」
「再建中の建屋もちらほら出てきたな」

と、少しずつであっても、復興のベクトルが感じられるかも知れない。

 ある日、気仙沼港を訪れたら、「大きな船が多いですね~」、そう九州の同僚がつぶやいた。
 気仙沼港に戻る漁船も増えてきた。気仙沼の復興は、この地域の漁業及び水産加工施設の復旧にかかっている。漁業こそ、この街のスピリットである。



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その2へ続く)

 
カテゴリ : 街並み
2013-01-14(Mon) | コメント : 0 | トラックバック : 0

坂上田村麻呂伝説 


 「火怨」の主人公、蝦夷の英雄、アテルイは征夷大将軍の坂上田村麻呂に倒された。そして、征伐された側の地には、この坂上田村麻呂にまつわる伝説が数多く残る。その多くは、必ずしも史実を基に形成されたものではないが、貴重な歴史資料になりうるのであろう。
 なぜなら史実でないからこそ、そのような伝説の形成過程を考察すれば、おのずから、その当時の時代背景を推測することが可能になるからだ。

 今回紹介する『坂上田村麻呂伝説』では、東北各地に残る田村麻呂伝説や、それが形成された背景などをわかりやすく紹介している。坂上田村麻呂にまつわる伝説として、その出生を夷人とする説や、悪路王、大武丸などの征伐伝説、あるいは悪玉姫を母とする伝説などがある。以下『坂上田村麻呂伝説』からそれぞれの伝説を解釈してみる。

 まずは夷人説であるが、史実において、坂上田村麻呂の系譜は明らかに渡来系(半島・大陸系)に求められる。にも関わらず、夷人説(蝦夷系)がとなえられたのは田村麻呂の蝦夷征伐から時代を経て再び朝廷と蝦夷(安倍氏)の抗争が始まった前九年後三年の役の頃で、田村麻呂に蝦夷との縁をもたせることで、朝廷側の征伐軍に正当性をもたせようとする意図が働いたらしい。このことは各地の伝説からうかがい知ることができる。

 次に、悪路王や大武丸伝説だが、これらは田村麻呂に征伐された山賊として登場する。一説にはアテルイを伝えた伝説とも言われるが、この伝説が形成されたのは鎌倉時代、頼朝による奥州征伐の後のことである。この征伐は「坂上田村麻呂の征伐」、「前九年後三年の役」に続く、最終的な蝦夷征伐とも解釈できる。これにより蝦夷の地、陸奥は鎌倉武士団に割譲され、権威、権力とも大和の系統に取り込まれることとなった。

 悪路王伝説は室町期に成立した『田村草子』をオリジナルとして発展したようだが、東北各地の寺社には、この伝説にまつわるものが多い。これは自説となるが、頼朝の奥州征伐より以前、陸奥各地には栄華を誇った平泉の恩恵に授かる寺社が多かった。そして奥州征伐後、鎌倉政権による取り壊しを逃れるため、悪路王伝説を利用したのではないだろうか?

 例えば、「この社は悪路王を征伐するため、時の大将軍坂上田村麻呂公が勧請した社なるぞ。」といったようにである。あるいは奥州征伐後に勧請した神社が、伝統的権威を高めるため、このような伝説を利用したことも考えられる。これに、後の『田村草子』がくっついて、各地に伝わる悪路王伝説の様々なバージョンが形成されていったのではないかと思えるのである。

 最後に悪玉姫伝説である。この姫は田村麻呂の生みの母として伝えられることが多いが、やはり『田村草子』にその原典が求められ、悪路王伝説と対を為す。
 一連の坂上田村麻呂伝説は発展していき、征伐の対象も悪路王からさらにパワーアップした大武丸に変わっていったが、これに伴い坂上田村麻呂にも相応の霊力を持たせねばならなくなってきた。そして登場したのが悪玉姫であると『坂上田村麻呂伝説』は解いている。この伝説では、霊力を感じさせる悪玉姫から田村麻呂が生まれたとし、その言い伝えが各地に残されている。

 以上、坂上田村麻呂にまつわる伝説は頼朝の奥州征伐後、陸奥における新たな権威や権力を再編成する過程で生まれたものであったようで、奈良~平安の「蝦夷時代」から時代を経た後の伝説と言える。ただし、ひっかかりもある。

 それは、悪玉姫や悪路王(秋田県の山本郡では阿計徒丸、阿計志丸、阿計留丸と伝えられる)などの名称が、各地の残るアイヌ語地名とも関係しそうな感じを受けるからである。 
 それがどういう意味を持つかと言えば、アイヌ語地名が「生きた地名」として語られていた蝦夷の時代、この頃から伝わる各地の説話に、『田村草子』をオリジナルとした坂上田村麻呂伝説が結びついていったのではないかとの思いである・・・

 が、これを検証するためは、私の見聞は足りな過ぎる。「ロードオブエミシ」の旅は、まだまだこれからも続くのである。


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『坂上田村麻呂伝説』


著者:大塚徳郎
出版:宝文堂(昭和55年11月1日 発行)
目次:
 一 田村麻呂の実像
 二 伝説の田村麻呂像
 三 田村麻呂伝説のひろがり



[トピック:達谷の窟(岩手県平泉町)]


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 蝦夷の首領悪路王がここに住みつき、民に悪事を働き苦しめていたのを坂上田村麻呂が毘沙門天の加護を得て成敗し、鞍馬寺から毘沙門天を勧請したのが達谷の窟の始まりとされる。
 成敗された悪路王はアテルイとされるが、もう少し別の説もあるようだ。この「達谷の窟」の「たっこ」はアイヌ語で「独立丘」とも解される。坂上田村麻呂伝説とは別の、秘められた歴史があるのかもしれない。

   達谷窟毘沙門堂



 
カテゴリ : 蝦夷の記憶
2013-01-06(Sun) | コメント : 0 | トラックバック : 0

偽書「東日流外三郡誌」事件 



 古代日本、縄文の正統的伝統を受け継ぐ荒覇吐王国があり、西から進出してきた大和政権と対峙していた。荒覇吐族は阿倍氏と名を替え、大和政権との争いは続いたが、徐々に北に追いやられるが、青森県津軽地方の十三湊に拠点を構え、海上貿易で富みを築く。しかし、その繁栄は突如襲った津波により消失した。この秘史は津軽地方の農家の天井裏から発見された膨大な古書に記されており、これを東日流外三郡誌と言う

 言うまでもなく東日流外三郡誌(以下『外三郡誌』と標記)は偽書である。その内容は誇大妄想で、冷静になってその内容を読めば(冷静にならずとも)、信ずるに足るものでないことが良く理解できる。
 種を明かせば、この「外三郡誌」は詐欺的骨董職人が自ら筆を執った捏造古書であり、その顛末が『偽書「東日流外三郡誌」事件』(以下『偽書事件』と標記)で丁寧に紐解かれている。それにしても、なぜこのような、偽書を少なからずの人が信じたのか?『偽書事件』では次のように記している。

「青森県人、そして東北人の歴史的コンプレックスにつけ込んだのが『外三郡誌』なのです。」(偽史 研究家 原田実)

 確かに東北、特に青森・秋田・岩手の北東北の歴史は、日本の中にあっては大和政権の力が及ぶのが遅く、続日本記など正史への登場も遅かった。このため鎌倉時代以前の記録が不明確であり、それゆえに正史とは別の、何か別の秘史があったのではなかったかと想像をかきたてるものがある。
 そしてまた、その秘史にこそ、辺境と言われた「みちのく」の尊厳が隠されているのではと、期待を抱かせてしまう面が確かにある。

 もう一つ、『偽書事件』によれば、

「素晴らしい東北の自然と歴史を、大和朝廷の侵略によって台無しにされたという論理は東北人の心情に入りやすい」(聖和学園短期大学教授 千坂嵃峰)


 この感情については、東北人が抱くものというより、むしろ東北の外から東北を見つめる人々において、より強い思いを抱かせる感情ではなかろうか?
 例えば『偽書事件』では、昭和末期におけるオカルトブームの時流に乗ったのが『外三郡誌』だったとしているが、隠され秘史というテーマは、東北内外にかかわらずオカルトマニア一般にとって興味がそそられる対象であったろうし、同様に大和朝廷といった中央に地方が侵略されたという構図は、左翼市民勢力活動家が入り込むにも、好都合なテーマだったように感じられる。
 そしてもう一度、東北人自らに視点を戻せば、このような『外三郡誌』を取り巻く怪しげブームに便乗し、これを村おこし活動に利用しようとした、思慮の足りない動きがあったことも、肝に銘じおくべきだ。

 それにしても、『外三郡誌』は罪深く、この偽書は漠然とした古代東北の歴史をオカルト的好奇心の対象としてしまい、結果として一層古代東北の姿を不明にした。

 今一度東北の歴史に目を転じると、宮城北部では奈良時代末まで、岩手県では平安時代中期頃まで蝦夷の暮らしが色濃く残っていたが、除々に大和文化に染まっていった。それでも前九年後三年の役を経て、平安末期頃には蝦夷の血を継いだ平泉文化が華開くが、これも源頼朝に滅ぼされ、東北の地は鎌倉武士団により割譲されるに至る。
 
 つまり大和政権、鎌倉政権と二度に渡り、東北の歴史は断絶しており、それ以前の歴史に不明な部分が多くなったが、考古学にも民俗学にも、その歴史を少しでも明らかにする手だては遺されている。
 また、このような学術的成果を待たなくとも地域の民話、暮らし、風習にも古代蝦夷の伝統は東北人のスピリットに引き継がれているはずであり、そこからも「いにしえの蝦夷」をたどる手だては残されているはずであろう。何も『偽書』の力など借る必要はないのである。



 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
2013-01-02(Wed) | コメント : 1 | トラックバック : 0
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