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音無の地名の由来「日本各地の音無伝説」  


 音無の地名の由来「水の音なし」から

 三本木町誌(1966年三本木町誌編纂委員会)では音無に伝わる民話を紹介している。これを要約して以下に紹介してみる。

 この伝説によると、弘法大師が諸国御巡錫の際、音無の湯殿山神社を訪れ、御神水を飲んだという。そし湯殿山神社の御神水の信仰が深まった。
 またいつの頃からかお社に巨大な藤の蔓が絡まり、秋になると実が実り、その実を包む堅い皮が二枚に割れる。その音が美しく「権現様が藤の実を割って聞かせて下さるのである。」と信じ、その音は頭痛の痛みを取り去ると信じられた。


 この藤の実が割れ響く音、これも「音成し」の由来につながりそうだが、そこまでの話は伝えられていない。

 前回記事では、大崎市三本木の「音無」の地名由来について「熊野由来説」を紹介したが、熊野の音無とはどういった地であるのか調べてみたい。宮城県から和歌山県熊野、ちょっとドライブで訪れる、というわけにはいかないが、幸いにして、インターネットの発達した現在である。家に居ながらにして、ある程度は熊野の「音無」を調べることができる。


 和歌山県熊野には音無川(おとなしがわ)がある。この川と熊野川の合流部付近に熊野本宮大社があるが、この大社は全国に散在する熊野神社の総本宮である。現在は高台にあるが、明治中頃まで合流部の中洲に鎮座していた。
 かつて中洲にあった本宮に詣でるためには、鞋を濡らし、身と心を清めながら渡河しなければならなかったという(「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」)。この熊野詣といえばその名が連想されるほど、音無川は名を知られた川であった。

(参:要約)み熊野ねっと>熊野の歌

 ここで紹介した熊野神社の「濡藁沓の入堂」と同じようなしきたりが大崎市三本木の湯殿山神社にもある。三本木の湯殿山神社が山形出羽三山に由来することは以前紹介したが、このような熊野神社しきたりを知れば、熊野神社との縁が強く感じられてくる。

 熊野の「音無」、この地名にどのような由来があるのかネットで検索したが、これといったものには出会えなかった。ただし先にも紹介したとおり、熊野の音無川はかなり名の知れた地であったらしく、いくつかの和歌に登場してくる。これについては、先の「み熊野ねっと>熊野の歌」を参照されたいが、和歌の中で「音無」は「川の音無し」あるいは「滝の音無し」としてうたわれている。これらはいずれも掛詞であるから、それを持って地名の由来にできないが、「音がない」との地名が、様々な思いを人々の心に投影させる様が伺える。
 
 ネットで検索すれば「音無」という地名が、全国各地にあることがわかる。かいつまんで紹介してみると・・・


(鎌倉の音無川)
「鎌倉志」「風土記稿」によれば源流に音無滝があり、砂山のために常に水声がないために名付けられた。
引用)Sakha Republic

と紹介している。(ただし引用元のブログ著者はこれに疑問を呈しているが。)

 石川県能登町にも音無川があり、以下の民話を伝えている。


(石川県の音無川)
 昔々、羽根を怪我した鷹がこの水で傷を癒しているのを旅の僧が見つけたそうです。この鷹を見た僧はとてもこの水を気に入りゴクゴクと飲んでいたのですが、どうもこの水には傷を治す効果がある様子。さっそく地元の浮腫で悩んでいた老婆にこの水を勧めてみたところ、なんと翌日の朝には腫れがひいていたそうです。それ以来、この清流の沸かした水を飲むと浮腫が治るといわれているそうです。
引用)伝承の大国・能登

 この民話と、冒頭に介した三本木音無の民話には「水を飲む」、「治癒」といった部分で共通項が感じられ、興味深い。
 もう少し、全国各地の「音無」を紹介してみる。


(東京の音無川)
 東京に日暮里には音無川があり、江戸百景にも描かれ、現在でも桜の名所として「音無親水公園」として都民に親しまれている。ここの音無は八代将軍徳川吉宗の出身地紀州の音無川から名前を採ったと伝えられている。
参考)写真とパピオン大好き

(長野県の音無川)
 信玄は、主な家来を集めて、作戦会議をした。ところが、作戦はなかなかまとまらなかった。そこはそばを流れている川の瀬音と滝の音がザアザアとうるさかった。そのせいで作戦がまとまらないと思った信玄は、川にむかって「うるさい、しずまれ」と雷のような大声でひと声どなりつけた。すると川の瀬音が、ピタッとやんで、作戦がまとまり、川中島へ進軍した。
引用)音無川(茅野市) ('07信州キャンペーン 【信州・風林火山】史跡ガイド)

 ざっと全国の音無地名とその由来について紹介してみた。たぶん、これ以外にも、多くの「音無」があるだろう。ちなみに、宮城県の音無については「宮城県地名考」で紹介されており、本ブログで紹介している大崎市三本木の音無以外にも以下の音無地名がある。


柴田郡川崎町支倉 音無並びに上音無・中音無・音無裏・音無山などの小字名がある。
名取市熊野堂に音無川
栗原郡花山村に音無山・音無滝
宮城郡松島町根廻にも音無という字名がある。

何れも山たたずまいや流れの状態は共通点を持っている。


引用)「宮城県地名考 菊地勝之助著 S45.5. 15 宝文堂 発行」


(追記)
 上で紹介した文献は、宮城県内の主な地名の由来について編纂した地名辞典である。この文献では、冒頭で紹介した三本木町誌で掲載する地名由来についても要約して紹介しており、他の市町村誌についても同様である。いわば「宮城県地名考」は県内市町村誌に記される地名由来の集大成版といったところであろうか?

 昭和45年発行と古い文献であり、内容も玉石混合と批判されることがあるが、現在のところ、これを越える県内地名辞典は出版されていない。
 また三本木町誌だが、こちらは新版が発刊されているものの、残念なことに地域に伝わる民話や地名の考察など、まさにそこで生活してきた者しか知り得ないかった情報が省略されている。このため、今回記事では、旧版から引用となった。
 ネット時代にあって、必要な情報を得るためには、ネットの検索で事足りるようになってきた。結果として既存ペーパー書籍の立ち位置が不安定化しているが、一方で地域の言い伝えや民話など、ネットではカバーできないペーパー書籍については重要性を増している。

 その意味で「宮城県地名考」の成果は、ネット時代となり、むしろ重要性を増していくのではあるまいか?ちなみに、本ブログ著書は、この「宮城県地名考」を何度か図書館に足を運び閲覧していたが、ついに思いあまって購入した。とは言っても絶版書籍であり通常の書店では売ってないから、古本屋で探して購入したわけだが、今さらながらアマゾンドットコムで通販していたことに気が付いた。

 こようなネットの発展は、一般に叫ばれるグローバリズムによる地域経済の破壊といった側面よりも、むしろ今まで手が届き難かった地域文化をより広い世界に解放するための力になる、といった側面が強いのではないか?これは地方在住者にとって歓迎すべき現象であると感じている。



 音無の地名の由来「音無周辺の古墳と38度線」に続く



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音無の地名の由来「水の音なし」 


 音無の地名の由来「風の音なし」から

 前回記事では、「風の音無し」とし、「音無」の地名を「風」に求めた。しかしながら、地元では「水の音無し」として「音無」の地名が伝えられているようである。今度は、三本木町誌(1966年三本木町誌編纂委員会)に記されている「水の音無」について紹介してみる。

(熊野由来説)
 西国の音無の地の住人である一人の行者が諸国修行中たまたまこの地を訪ね、西国の音無の里(和歌山県熊野)にその地形がよく似ていると共感し、音無の名が生まれたという。

確かに音無という地名は和歌山県熊野にある。これについては、後で紹介する。

(川の音無し説)
湯殿山神社の鎮座する山中の谷川を始め、山間から流れ出る細流も、その流れが極めてゆるやかで、(中略)これらの流れの状態も音無の地名を生んだ一つの起因と見られる。

つまり川の音が無いから、音無とする説である。

上記、二つの説を紹介したが、熊野由来説は、その熊野の「音無」自体が川の音無し説で名付けられた可能性もあり、それゆえこれら二つの説は互いに相反するものではない。

 それでは、実際の音無の地形はどうであろうか?
 これを考察するためには、まずは三本木の「大字音無」、この決して狭くない土地のどこが音無の発祥の地であったのか比定する必要がある。しかしながら、現在、「大字」音無に、小字としての「音無」が見あたらない。ゆえに、音無発祥の地は比定できないが、仮に湯殿山神社のある細流が音無だとすれば、確かにこの細流は静寂である。湯殿山神社の細流は鳥居の外を出てすぐに、荒川堰という農業用の幹線用水路に注ぎ、その流れを終わらせる。

 この荒川堰は、鳴瀬川支流の保野川から水を取り入れ、色麻町の扇状地を潤している。本ブログでも紹介するライスフィールドの水田もこの堰の恵みを受ける。荒川堰は比較的起伏の大きい地形を貫流するが、色麻町を過ぎ、三本木の音無に至る頃には、一層、その起伏を大きくする。

 地図で眺めれば、音無付近の荒川堰が鋸の歯のようにギザギザに路線を変化させていることがわかる。これは、水の流れを保つために、山の同等高線沿いに流水を導いたためであろう。本来であれば等高線と直角となるはずの水の流れが、平行して流れている。さらに付け加えれば、この流れは幾多の隧道をくぐり抜ける。


湯殿山神社付、ギザギザの荒川堰

大きな地図で見る


大きな地図で見る




 堰が灌漑するのは鳴瀬川右岸の大崎市三本木音無や大崎市松山伊場野の水田である。この地域の水田は、そのすぐ背後に分水嶺が控え流域に乏しい。そのような水田に水を灌漑するため、堰は地形の起伏が大きく、水を流すには自然の摂理に反した路線を採らざる得なかったのであろう。

 少し、荒川堰の話が長くなったが、おおよそ音無の地形の特徴が浮き彫りになったかと思う。現在でも、音無付近に川というほどの流れが無い。これはそもそもの流域(川の水源となる地域で、おおよそ川の流量はこの面積に比例する。)が少ないためである。この荒川堰が築かれたのは、江戸初期の頃である。

 それでは、現在でこそ、荒川堰に吸収される湯殿山神社の細流だが、堰が築かれる以前、細流はどのような流をもって、下流に流れていたのであろうか?

 現在、細流は荒川堰と合流する。その向こうには、数メートルの段差が生じた地形がある。とすれば堰が出来る以前、細流は堰に合流せず、その段差に至り水を落下させていたことになる。たぶん、小さな滝があったのではないか?

 果たして、その滝が「音を成していた」のか、あるいは「音が無かった」のかは、今では知る由もないが・・・



色麻町大村付近の荒川堰と薬莱山の眺め
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 音無の地名の由来「日本各地の音無伝説」 に続く







 

音無の地名の由来「風の音なし」 


 音無湯殿山神社(その3)から

 東北自動車道を仙台から北に向かう。大和町付近でようやく低平地に出会い、車窓から眺める風景が遠くに開ける。しかし、その風景はすぐ終わり、再び丘陵を削って通した路線が続く。車窓からは里山の木々が眺められるが、しばしばコンクリートの擁壁に視界が遮られる。道路は緩いカーブとのんびりしたアップダウンが続くが、三本木パーキングを過ぎれば水田が広がる大崎平野が圧倒的なスケールで視界に迫ってくる。

 東北自動車道から眺める大崎平野の風景は、人により、あるいは季節により違った印象を抱かせる。


 「田植えの進捗率、3割」


 ゴールデンウィークは水稲農家にとって一大イベントとなる田植え時期である。限られた日数で農作業を行わねばならない兼業農家にとって、ゴールデンウィークは貴重な農作業日である。この期間に人手のかかる田植えを完了させねばならない。

 広大なマス目が広がる大崎平野、一枚の水田で田植えが終われば、一つのマス目が塗りつぶされる。そしてゴールデンウィークが進む毎に、塗りつぶされるマス目は増えていき、モザイク模様が広がっていく。この風景が田植えの進捗率を教えてくれる。

 もっとも最近は専業農家に田植え作業を委託する兼業農家が増えた。そのため、以前に比べ、塗りつぶされるマス目の広がりが緩慢である。農業政策の変化が、眺める風景にも変化を与えていく。

 これは、稲刈時も同じであり、それは地元民にとっての風景でもある。しかし他県から来た人間には、また別の印象を持って大崎の風景が捉えられている。


 「圧倒的スケールだ、すごい!始めての風景だ!」


 ひたすら水田が広がる、ただそれだけの風景。地元民にとっては退屈にさえ感じられるのだが、訪問者にとって、それは驚きと感動を与える風景のようである。そして


 「もっと、この風景をPRしたら?絶対インパクトのある観光資源になるよ。」


と、アドバイスまでしてくる。自らの価値、常にそれは他から教えられるものなのかもしれない。


「『鳴瀬』はね、田んぼが広がってるでしょ。だから風が強くてね。特に春一番はゴーゴー響いてくる。だから風が『なるせ』なの」


 大崎平野の西端、加美町でも特に低平地にあるのが鳴瀬地区である。そこの住人が鳴瀬の地名の由来を教えてくれた。

 平成22年の秋、高空にある比重の大きな空気塊が一気に墜落した。突然の出来事だった。このダウンバーストにより、稲刈り直前の稲が倒伏した。この被害が大きかったのも、鳴瀬地区付近だったろうか。


「でもね、鳴瀬から車で10分もいくと『音無』があるでしょ。山の尾根に囲まれてるから風が吹かない。だから風の『おとなし』なんだって。」


 音無の地名の由来はいくつかある。ただし、風の音がしないから「音無」、この説は鳴瀬の人から聞いたのみである。鳴瀬では、風の音がふるさとの風景と一体となっている。だから他の地にも、その風景の有無を確認しているのかもしれない。

 地名の由来には様々な説がある。どれがホントでどれが後付けなのかはわからない。ただ、一つ言えることは、その由来が例えホントであろうと後付けであろうと、そこには地域の風土や歴史が投影されている。だから音無の地名の真実にたどり着けなくとも、その過程で様々な出会いがあるだろう。



鳴瀬川対岸から眺める鳴瀬集落
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 音無の地名の由来「水の音なし」に続く


 

音無湯殿山神社(その3) 

音無湯殿山神社(その2)からの続き



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 山の尾根と尾根の間にほんの小さな清流がある。
 落ち葉を濡らし、ようやく水面が出来る流れはささやかである。これを一本の筋とすれば、その途中々でいくつかの湧き水が合流する。その滴りは一層ささやかだが、一つ々に紙垂が飾られる。

 始めての光景である。

 もちろん音無の湯殿山は始めて訪れたわけだが、そういう意味でなく、このような形態の神社には始めて出会った。
 最初、不思議な印象を持ったが、すぐにその光景が調和のとれた自然の姿となり心になじむ。

 この場所の光景は自然の営み、人と自然のあり方をシンプルに伝えてくれる。これが信仰というものの場なのであろう。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 「もう一つ、気が付かなかったか?」

 数日後、顔見知りの爺さんから言われた。この爺さんは、音無にも関わる農業団体の要職を努めている。だから爺さんは何度か湯殿山神社を訪れているはずである。

 この投げかけに言葉を詰まらせると、爺さんは続けた。

 「あそこの森な、このあたりでは見ない木が多いんだよ、不思議とな。」

 そう言えば、そうだったような気もする。一本々の木までは注意して観察しなかったが、感覚的に納得できた。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 音無湯殿山神社は1447年に奥羽探題の大崎義直が勧請したのが始まりとされ、その地形が出羽三山の湯殿山神社に似ており、湯殿山神社としたと伝えられる。

 境内一円には数百年もたったと思われる常緑樹、落葉樹が繁茂し、春秋二回の例祭には遠方からの参拝者が多い。谷川の冷たい流れを裸足で歩くのが慣例となっている。



 音無の地名の由来「風の音なし」に続く




 
カテゴリ : 花と木々
2010-12-18(Sat) | コメント : 0 | トラックバック : 0

音無湯殿山神社(その2) 

音無湯殿山神社(その1)からの続き



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 その3に続きます。

 
カテゴリ : 花と木々
2010-12-18(Sat) | コメント : 0 | トラックバック : 0

音無湯殿山神社(その1) 

 大崎市の三本木に音無(おとなし)という場所がある。
 この付近は、私生活上、車で通過する機会が多いが、車の窓から眺めるその風景に、いつも心にひっかかるものがあった。

 ある日、仕事の関係で音無を訪れる機会があった。
 
 地元の人と会い、ノルマの立ち会いを終え、そして全く仕事とは関係の無い話をふってみた。

 「この付近、不思議と広葉樹林がおおいですね?」

 人里に接した丘陵地、普通であればスギりが植えられ針葉樹林となっている場合が多い。しかし音無付近は不思議と広葉樹林が残っている。以前から心にひっかかっていた疑問である。

 この不意の質問に、地元の人は一瞬首を傾げたが、すぐに確信めいた顔となり答えた。

 「権現様の関係かな、あまり木に手を付けない。私有林でもね。」

 ・・・権現様

 そういえば、いつも車で通過する国道沿いに「湯殿山神社」と書かれた古いトタンの看板があるのを思い出した。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 それからしばらくたち、約束の用事があって音無付近を車でドライブしている時、「湯殿山神社」の看板が目に入った。

 ・・・時間に遅れるな

 そう思ったが、良く晴れた晩秋の空が決断を促した。

 ・・かまうもんか、よし、行こう

 今まで何度、音無を通過しただろう。始めて、「湯殿山神社」を訪れる気になった。

 写真を撮ったので、以下紹介してみる。



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 その2に続きます。

 
カテゴリ : 花と木々
2010-12-18(Sat) | コメント : 0 | トラックバック : 0

平成22年産農薬を使わないササニシキ、ネット注文受付中です 

<木村水田の稲刈り、有機玄米出荷です 宮城県石巻市木村水田

 平成22年、農薬を使わずのササニシキ、木村農園の田んぼの様子です。



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平成22年8月10日、猛暑の夏、出穂した頃の田んぼです。


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 出穂した田んぼを見廻っているとトンボが羽化してました。なんか嬉しいですね。
 最近は農村でも、トンボンボが少なくなってる傾向がありますが、今年は猛暑の影響もあって、なお少ないように感じます。
 農薬を使わない田んぼは、トンボにとって良い環境でしょうね。


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 とは言え、農薬を使わないと、雑草にも良い環境になってしまいます。
 写真は、雑草のコナギが繁茂している様子。
 このような雑草の生え方は「農薬を使わない」稲作の証拠で、いろいろ書類やら検査やらのトレースよりも、この状態が何より、無農薬での稲作の証拠になります。
 ついでに言えば、収量減の証拠にもなりますが。


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平成22年9月17日、猛暑の夏、出穂した頃の田んぼです。


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おかげさまで今年も無農薬のお米を収穫できました。

木村農園の農薬を使わないササニシキ、ネット注文受付、全国に発送中です。



 田でん虫むし田んぼのお米 



 農薬を使わないササニシキネットワーク「ササライス」

 

今年の「たまゆたか(干芋用です)」お届けしてます。 

 宮城県石巻市木村水田から、干芋用の「たまゆたか」お届けです!

 木村水田でも、ここ数年、干芋ブームが続いてます。
 毎年、畑に植えた「たまゆたか」で干芋づくり、芋の出来は、その年々の気候によって?結構出来が違ってきます。



DSC02537.jpg

今年のたまゆたか畑、収穫直前です。




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で、収穫しました、11月5日収穫です。




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どう!今年のおイモ



 木村水田では、干し芋用「たまゆたか」のネット通販も受付してまいす。

 一緒の干芋つくりましょう。

 干芋づくりで何かわからないことあったらか、下記をクリック、気軽にメールしてくださいね!


 木村農園では、干し芋用の芋「たまゆたか」をネット通販しています。
 無農薬の干し芋用「たまゆたか」 


 

シイタケ・デビュー 

 こんにちは、ライスフィールドのマスターです。

 店の前に仕込んでおいたホダ木、今年の秋、ついにシイタケが芽吹いてきました!

 シイタケデビューです。



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 ようやく、食べられるまでになたったシイタケ、かわいいですね~
 見とれてしまいます。

 が、しかし、シイタケは人に食べられ、天寿を全うするのです・・・
 なので、いただきます!

 里の恵みのキノコです。


          
ライスフイールド/山の恵み、キノコ
         



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カテゴリ : 里の恵み
2010-12-15(Wed) | コメント : 0 | トラックバック : 0

新米・古米ならぬ新薪・古薪 

 こんにちは、ライスフィールドのマスターです。

 只今、来年の薪を仕込んでいます。

 おかげさま今年の薪も完売しましたが、なかなか皆さんに十分な薪をお届けできず、今年はシルバーさんにお願いして、薪割りを手伝ってもらってます。 



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薪割り作業の様子です。



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古薪、新薪




 上の写真で左側の色の濃い方は、薪割りして一年乾かした薪、右側の色の薄いほうは薪割りしたばかりの薪です。


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こちらは「新薪」の拡大写真



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こちらは「古薪」の拡大写真




 一年乾かした「古薪」は色合いだけでなく亀裂があるのも特徴です。

 よく乾かした薪は煙も少なく、火持ちも良く、大切なストーブも長持ちします。
 煙が少ないので、煙突掃除の負担も少なくなるようです。

 自然の暖かさ、薪、来年の「暖」をお届けするため、今年も仕込み作業、真っ盛りです。



               
ライスフィールド提供の「薪」!はこちらから
              



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里の恵み、天日干し 

 こんにちは、ライスフィールドのマスターです。

 ライスフィールドでは、お米だけでなく、柿も大根も天日干しです。



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 天日干しで、里の恵みも味わいを増していきます・・・不思議ですよね!

 里の恵み、おてんとの恵み、自然の恵みの「ライスフィールド」に一度おこし下さい!



           
ライスフィールド
          



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カテゴリ : 里の恵み
2010-12-15(Wed) | コメント : 0 | トラックバック : 0

二風谷のアイヌ家屋 

 今年9月に北海道を旅し平取町を訪れました。

 平取町と聞き「『崖の間』か・・・」などと、ほんの少しだけアイヌ語地名を理解できる知識は身につけてはいたが、車で走り、周囲の地形を見回しても「崖の間」といったほどの急峻な地形には出くわさない。

 もう少し走ると二風谷ダムの看板が見えてきた。もしかしら「崖の間」はあのダムの底に沈んだのかな?とも思った。

 この二風谷にはアイヌ資料館があり、見学させていただきました。



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 アイヌの家屋です。

 東北地方の民家とアイヌの民家に何か共通ししているものがないかと思い、興味深く見学させていただきました。もし、そこに何か共通性があるならば、それはかつて東北にあった蝦夷文化の名残だと考えたからです。
 
 しかし屋根の部分に、若干だけ似通った趣があるものの、なかなか東北の民家とアイヌの民家に共通性は見いだせませんでした。

 東北地方の北半分は奈良~平安頃まで蝦夷の勢力が強かったわけで、そのため現在でも東北地方には、北海道と同じアイヌ語で解ける地名が数多くあります。

 しかし、必ずしも蝦夷=アイヌというわけではなく、鎌倉時代以降は蝦夷の勢力が途絶えつつあった東北に比べ、北海道の蝦夷?は時にオホーツク文化の影響を受けながら、また生活の糧を鮭漁に特化させていきながら、独自の文化的発展を遂げていきます。
 そして、アイヌの民家「チセ」にも、このオホーツク文化の影響が見られることは、下に紹介する本「アイヌの歴史」でも紹介されています。

 もともとは、同じ文化を共にしていたと思われる東北の蝦夷と北海度のアイヌ、しかし一方は大和の文化に同化していき、一方はオホーツク文化の影響を受け、それぞれの道を歩んでいったのでしょう。



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 アイヌ民家の内部です。
 基本的に釘は使わず、丸太と丸太をロープで縛り付け、組み合わせているようです。

 凹凸のホゾで構造材を組み合わせている様子もありませんが、泥壁も板も使わず、床がないのも日本家屋との大きな違いです。



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 アイヌの祭具「イナウ」、神様への供え物で、一本の棒から削り出し作ります。

 これとよく似た風習は宮城県にもあり、やはり神様への祭具として一本の棒から削り出します。
 民家からはなかなか共通性が見いだせなかった東北文化と北海道アイヌの文化でしたが、イナウのような風習からは、互いの共通性が見いだせました。
 
 まだ他にも共通する文化が見つけられるかも知れません。





 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
2010-12-14(Tue) | コメント : 1 | トラックバック : 0

多賀城の東「貞観津波と蒲生干潟」 

 多賀城の東方には塩竃港があるが、多賀城の盛衰としてより重要なのが七北田・砂押川の河口である。
 かつてこの河口には、湾と見間違えるほどの広い水面があったはずである。


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奈良時代頃の多賀城周辺の地形(想像図)




◆貞観津波
 多賀城の前身である郡山が大津波で崩壊しただろうことは多賀城の立地と地名で記した。これは西暦700年代初頭と想像されるが、西暦869年、再び大地震があり巨大津波が多賀城周辺を襲った。これを貞観津波と言う。

 六国史の「日本三代實録」には、この貞観津波の記録がある。これを簡単に紹介してみる。

  5月26日、陸奥国に大地震あり。
  人、伏して起きあることできず、
  崩壊した建家の下敷きになり、圧死する人々、
  地割れに脚をとられ、もがく人々。
  牛馬はあてど無く駆け廻り、
  崩壊した城郭、倉庫、門櫓、城壁、数えきれず。
  海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。
  瞬く間に城下に至り、海より数十百里を遡る。
  原野、道路、瞬く間に霧散し、
  船に乗れず、山に登れず、溺死者一千ばかり。
  それまでの資産、殆ど無に帰す。

 郡山と違い、多賀城は高台にあったから津波の難を逃れることができた。しかし、その城下の繁栄はことごとく失われたようである。
 多賀城の城下街は七北田・砂押河口の舟運の利もあり、大きく繁栄していたようだが、それが瞬く間に消滅した。

 貞観津波は現在の国道4号バイパス付近(海岸から5km程度)まで押し寄せたようで、現在の利府や岩切も大きな被害を受けたであろう。

 仙台市では平成17年度に宮城県沖地震により想定される津波の遡上シュミレーションを行っており、これによるとやはり海岸から5km程度、津波が遡上する結果が得られている。

 現在は、河川堤防が嵩上げされているから、貞観津波に比べれば、津波の脅威は小さくなったと言える。もっとも、当時に比べ十数倍の人間が貞観津波の浸水域で生活してはいるが。

◆蒲生干潟
 さて、現在の七北田川河口付近が江戸時代に付け替えられたことは、多賀城の周囲で紹介した。
 しかし、これは自然の理に反した付け替えであったようで、七北田川は常に砂州の閉塞に悩まさ続けたきた。川が運ぶ土砂で、河口が埋まっていくのである。
 そのため七北田川河口には広々とした砂浜が形成されたが、その後、上流にダムが建設され、土砂の排出が安定した。
 また仙台港の開港により、七北田川はさらに南側に付け替えられ、これが結果として河口部に干潟を創出させるに至った。これを蒲生干潟と呼ぶ。

 干潟には浅瀬が広がり、これが広大な葦原を生む、そして葦は育っては朽ちてを繰り返し、多くの有機物を干潟に堆積させる。この有機物を潮の干満が分解する。

 分解された有機物は干潟に守られ海に流出せず、その代わり、膨大な量の低生生物を涵養し、これがさらに多くの生き物を扶養していく。

 つまり干潟では壮大な生命再生産エンジンが稼働しており、豊かな自然があるのだが、ただし蒲生干潟は、七北田川の付け替え、ダムの建設、港湾の整備により生み出された人造の自然の宝庫でもあるのである。

◆自然保護と開発
 現在、蒲生干潟では津波防災のため、堤防の築造が行われている。仙台平野が常に津波に襲われてきた歴史を思えば、堤防の築造は、そこに住む住民にとっての生命線となろう。

 一方で、河川の付け替えやダムや港湾建設の結果として生み出された自然の宝庫、蒲生干潟に生息する自然環境を維持するため、開発は最小限に抑えるべきとの考えもある。

 過去から現在まで続く七北田川河口の開発は、意図せざる結果を生み、そこに住む人々の生活に少なからず変化を与えていくようである。


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蒲生干潟



【記:平成21年11月21日】
【本ブログ転載:平成22年12月11日】

 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
2010-12-11(Sat) | コメント : 0 | トラックバック : 0

川と海、沼沢地に囲まれた要衝 

 前回記事で、蝦夷地進出のため、大和が築いた重要拠点の多くが、河川が合流する天然の要害を選んで築かれたのではないかと記した。

 それでは実際に多賀城の地形を眺めてみる。

 下記に掲載するのは、現在の多賀城周囲の地形である。西と南に砂押川、東に貞山堀運河と塩竃港、北に加瀬沼がある。確かに多賀城は要害といった感があるが、しかしこれはあくまで現在の地形である。


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現在の多賀城周辺の地形




 多賀城付近の地形は、江戸時代の伊達藩開発により大きく変遷している。その変遷で重要なものを挙げれば以下となろう。

・貞山堀運河の開削
 貞山堀運河は伊達政宗の命により川村孫兵衛重吉指揮のもと開削された。多賀城東側の運河は1658年頃から1673年の開削とされる。

・七北田川の路線変更
 現在の七北田川の路線は江戸時代初期に付け替えられたものである。七北田川は元々、多賀城南側付近で砂押川と合流し七ヶ浜町湊浜付近に河口があったようである。

・加瀬沼の築造
 加瀬沼は江戸初期の1658~60年に灌漑用水の確保のため築造されたとされる。ただし、多賀城から蝦夷進出の拠点であった頃、既に多賀城の外濠として沼沢地が設けられていたと伝えられている。

・塩竃港
 塩竃港は歴史を経る毎に順次埋め立てされてきたと考えられる。明治初期の地形図を見れば、塩竃港が塩竃神社のほど近くまで食い込んでいたことがわかる。

 以上から、奈良時代頃の多賀城付近の地形を再現すれば、下記のようになろう。


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奈良時代頃の多賀城周辺の地形(想像図)




 この地形から、多賀城の要害としての立地条件を考察してみる。
 
 七北田川は砂押川と合流し、そこは感潮の影響もあって港と見間違えるほど広々とした水面が広がっていたと思われる。
 砂押川も川幅が広い合流部から感潮の影響を受け、下流から加瀬沼までの区間は現在よりも広い川幅があったものと想像される。
 このように、多賀城の南側、西南側は、またとない天然の要害を為していたと思われる。

 北西側には加瀬沼があり、これも天然の要害を為していた。ただし加瀬沼は流域が小さいので川の流量は小さく、そして標高も高いから感潮の影響も受け難い。そのため川幅は大きくなかったと想像され、人工の堤を築くなどにより、多賀城外堀の機能を強化したものと思われる。

 東側には太平洋が広がるが、塩釜港は現在よりも内陸に食い込んでおり、さらに要害としての条件が向上している。

 このように、古代の多賀城は天然要害として絶好の立地条件にあった。ただし問題は北東部にあり、ここには外堀の開口部が生じている。

 おもしろいのは、この「北東」という方向で、これは鬼門の方向にあたる。この北東については、後日、もう少し考察してみたい。

【記:平成21年11月20日】
【本ブログ転載:平成22年12月11日】

 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
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多賀城の立地と地名 

 前回記事では多賀城を巡る基本的な年表を紹介したが、陸奥国府が多賀城に移動したのが西暦724年。それ以前は多賀城からおおよそ13kmほど南西に位置する仙台市太白区の郡山に国府があった。

 郡山の国府は、名取川と広瀬川が合流する三角地にあり、南北東をそれら両河川に囲まれ、天然の要害を為していた。

 郡山に限らず大和の重要な蝦夷進出拠点は、河川合流部に築かれることが多い。これは多賀城を始め伊治城(宮城県栗原築館)、胆沢城(岩手県奥州市水沢)も同様である。


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南西方向から多賀城政庁跡を眺める




 このような河川合流部に拠点が築かれたのは、天然の要害といった戦術上の理由以外にも、舟運といった輸送上の利も考慮したと想像される。戦争の実態の大部分は輸送に割かれるから、舟運の利便性は、拠点を定める上で重要なファクターになったのではないだろうか。

 宮城県内にも、未だ場所の確定しない蝦夷進出拠点の「柵」がいくつかあるが、これの比定においては、もっと河川との関係についての考察があって良いであろう。

 いずれにしても、郡山は他の重要拠点と同様に河川の合流部にあり、その意味で多賀城と郡山は同じ立地条件にあると言える。ただし異なるのは地形の「高さ」で、郡山は扇状地に位置するとは言え、多賀城に比べればずっと低平な位置にある。この地形の違いが、郡山から多賀城に国府が移る原因の一つになったとの考えがある。

 それは「津波」の影響である。

 大和の蝦夷地進出は、当然の如く時代を経る毎に北進するわけで、そのため郡山から北に位置する多賀城に国府が移されるのも当然の流れではある。ただし、津波が与えた影響も無視できない。

 「仙台平野の歴史津波」(飯沼勇義 1995年9月30日 (株)宝文堂 発行)によると、仙台平野はおおよそ150~200年に一度程度の割合で大津波に襲われている。それから推測すれば西暦700年頃にも大津波があったと予想され、これがちょうど郡山から多賀城に国府が移動した時期と重なる。

 確かに、かろうじて扇状地に区分されるとは言え、郡山の直正面には大河川の名取川が控えており、大津波が来れば、容易にその被害を受けることになっただろう。ちなみに、郡山遺跡は標高8~12mの地点に位置する。

 これに比べれば海岸線に近くとも、標高50mの丘陵に建つ多賀城は、郡山に比べれば津波の被害から免れやすく、西暦869年の貞観津波では震災による建築物の被害は被っても、津波による被害は避けることができた。

 このように多賀城は郡山に比べて、より高地に位置するのが特徴で、それゆえに「高(タカ)きにある城(キ)」が多賀城の名の由来になったとされる。

 ただし、この地名の由来には、個人的に異論が無いわけでもない。

 と言うのは、多賀城(タカギ)という地名は、宮城県内でも高城(タカギ)という表記で、松島町、色麻町、美里町小牛田にある。そしていずれもが、「高い城」とは別の意味で解されているからである。

 まず多賀城にほど近い松島町の高城である。ここは周囲に高地はあるものの、中世の頃は「竹城」と記されていたから、タケギがタカギに転移したものと想像される。

 次に美里町の高城であるが、これは続日本紀にも記録される「田夷竹城公金弓に意薩(おさと)の姓を賜ふ」に比定され、やはり「竹城」である。そして美里の高城は低平な場所に位置し、周囲に高地は無い。

 最後に色麻町の高城であるが、こちらも竹城と解され、やはり低平地にある。


 ところで日本書紀景の巻第七には日本武尊が蝦夷を征伐した以下の記録がある。

「日本武尊は上総から移って陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回った。玉浦を横切って蝦夷の支配地に入った。」

「蝦夷の首領島津神・国津神たちが竹水門(たけのみなと)に屯して防ごうとした。」

「蝦夷を平らげられ日高見国から帰り、常陸を経て甲斐国に至り・・・」

 この記録は景行天皇の代で、西暦300年代前半と比定される。竹水門がどこであるかは諸説あるが「日高見国から帰り、常陸を経て」とあるから、少なくとも常陸(茨城県)以北の太平洋岸であったことがわかる。
 日高見国を北上川流域とする説は多いが、日高見国とは単に大和に服さない東方の蝦夷の土地と解する説もある。その説を採るならば、ここでの日高見国とは時代背景から考えて福島地方も含むことになるため、必ずしも北上川流域とは限らない。
 いずれにしても、竹の水門とは宮城・福島太平洋沿岸の良港が有力視され、もちろん多賀城付近もその有力候補にあげられるのである。

 このような観点から考れば、やはり多賀城の地名は竹城に由来すると考えたくなってくる。ただし、ここで言う竹城の「竹」が植物の竹を意味するかどうかは、また別途検証しなければならない問題ではあろう。

 このように多賀城(タカギ)が、「竹の城」、「高い城」いずれの由来となるかは、現在となっては確かめるすべも限られる。
 しかし地名には歴史を紐解くヒントが散りばめられており、今一度多賀城の地名を考察することも意味があろうと思うのである。


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多賀城政庁跡から、南西方向を眺める




【記:平成21年11月16日】
【本ブログ転載:平成22年12月11日】

 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
2010-12-11(Sat) | コメント : 0 | トラックバック : 0

多賀城と蝦夷 

 多賀城を蝦夷との関係で述べるならば、律令制下の奈良時代、未だまつわらぬ蝦夷の地への進出の足がかりとして、大和政権が置いた城が多賀城であることは改めて説明するまでもない。


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多賀城政庁跡




 大和政権は成立間もない頃から東に向け版図を広げた。それはアメリカの西部開拓やロシアのシベリア進出にも似て、拠点ごとに柵を設け進出する方法であり、そしてまた太平洋戦争の米軍の如く、飛び石により柵を東進させた。
 その延長線にあったのが多賀城であり、その意味で言うならば、多賀城は単なる大和政権東進の一拠点にしか過ぎない。
 しかし、多賀城が東北の歴史に深く刻まれることになったのは、そこが大和と蝦夷の激しい争奪ラインとなったからである。奈良時代初期まで順調とも思える大和政権の東進は、このラインに来て、ついに停滞するに至った。

 青森、岩手、秋田には数多くのアイヌ語地名が残るが、このような地名は宮城県北部からちらほら出現してくる。どうも、宮城県北部付近には、ある種、なんらかの文化的境界ラインが形成されたようであり、そのラインの大和側最前線に多賀城があった。

 以下、多賀城を中心とする大和政権と蝦夷の抗争の年譜を記してみる。

709 陸奥蝦夷叛乱、陸奥鎮東将軍とし巨勢朝臣麻呂が派遣されるも殺害される。
712 「最上郡」が初見
714 陸奥国に丹取郡(現:宮城県大崎地方と比定)を建置
717 それまでに陸奥国は柴田・名取・宮城・志太・黒川・加美・玉造等の諸郡を管轄との記述あり
720 陸奥蝦夷の叛乱、按察使毛野朝臣広人が派遣されるも殺害される。
724 海道蝦夷の叛乱で佐伯宿彌児屋朝麻呂が殺害される。
724 陸奥国府、郡山遺跡(現:仙台市太白区)より多賀城に移転。臨時の征夷官職が常駐鎮守府将軍となり、大野東人が任じられる。
728 兵站機能として多賀城の南に白河軍団を置き、北に丹取軍団改称の玉造軍団を置く。
737 大野東人、関東6ヶ国精鋭196騎、鎮兵499人、陸奥国兵5000人、帰順蝦夷249人を率い色麻柵を経由し、奥羽山脈を横断遠征、男勝村を帰順させる。
739 大野東人、参議に任ぜられ多賀城を去る
758 桃生城、雄勝城(現:宮城県石巻市)造営
762 藤原恵美朝狩により多賀城修繕
767 伊治城造営(現:宮城県栗原市築館)
770 帰服蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇ら賊地に逃走し反抗姿勢を示す。
770 黒川・賀美など11郡の俘囚3920人から俘囚の名を除き、調庸を納めるとの申し出あり認可
775 宇漢迷公宇屈波宇ら桃生城の城郭を破壊。
775 夏から秋にわたり陸奥蝦夷の騒動が続く、民は城塞にこもり田畑荒廃。
777 俘囚出身の伊治公呰麻呂、出羽国志波村(現:岩手県紫波地方)の蝦夷征討に功を上げ.る。
779 伊治公呰麻呂、外従五位下に任じられる。
780 伊治呰麻呂、陸奥按察使の紀広純を伊治城にて殺害し多賀城を焼き討ち。これを「宝亀の乱」と言う。藤原継縄が征東大使に任ぜられ、鎮圧にあたるも志気振るわず罷免。
781 藤原小黒麻呂が持節征東大使に任ぜられ2千の兵を率いるも蝦夷軍優勢で解散、しかし伊佐西古、諸絞、八十島、乙代ら賊の首をあげる。
 度重なる兵役により諸国百姓は疲弊、田植え免除の措置が取られる。
789 紀古佐美率いる官軍が、蝦夷側首領、阿弖流爲(アテルイ)軍により大敗。これを「巣伏の戦い」と言う。
793 坂上田村麻呂が副将軍ながら蝦夷征伐に功をあげる。
796 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられる。
802 坂上田村麻呂の蝦夷討伐により阿弖利為と母礼等500余人が降伏。戦線は移動し、鎮守府が多賀城から胆沢城(岩手県奥州市)に移動。
803 坂上田村麻呂、志波城(現:岩手県盛岡市)造営。
804 坂上田村麻呂、征夷大将軍に再任され三度めの遠征を期すも民の負担過大にて中止。
 この年、「武藤・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥国、糒14315斛陸奥国小田郡中山柵(現:宮城県涌谷町に比定)に運び蝦夷を征す」とある。
869 陸奥国大地震、多賀城も被害多く、この後復興するも十世紀後半頃までに放置され、次第に崩壊。


 多賀城が置かれたのが724年、そして大和政権の軍事拠点が多賀城から胆沢城に移動したのが802年、おおよそ80年近く、多賀城は、蝦夷討伐の拠点であり続けた。
 最終的に大和政権は岩手中部まで東進の歩を進めたが、804年の征夷中止にも見られるように、それは一時的なものであって、北東北の蝦夷は実質的自治権を勝ち取ったようである。これがその後の平泉文化につながっていく。


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多賀城政庁跡(外郭東門)




【記:平成21年11月9日】
【本ブログ転載:平成22年12月11日】




 
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丹取郡(にとりぐん) 

 8世紀前半の日本の陸奥国(後の陸前国)に置かれた郡。現在の大崎市西部地区(旧玉造郡)に置かれたものと推測されているが、はっきりした場所は不明。 宮城県北地方では最も早い時期に置かれた郡とされる。



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色麻町「念南寺古墳」付近の高台から、丹取郡比定方向を眺める



▼続・日本紀の記録
 713年 新しく陸奥国に丹取郡を建てた
 728年 陸奥国が新たに白河の軍団を設けた。また丹取軍団を玉造軍団と改称することを申請した。何れもこれを許可した。


▼丹取郡の位置の比定
 「丹取軍団を玉造軍と改め」とあるが、従来まで、丹取郡は玉造地方(宮城県旧岩出山町、旧鳴子町)周辺ではなく、現在の名取市周辺にあると考えられていた。
 これは征夷総督府といった趣の多賀城より先に、その北方に郡が置かれるのは不自然であるといった理由からであり、「丹取(ニトリ)」の名称もまた「名取(ナトリ)」の誤記であると捉えられていた。
 しかしながら、奥羽山脈の反対側である出羽地方を眺めれば、

712年 陸奥国の最上と置賜の二郡を割いて、出羽国に附けた。

 と「続・日本紀」にある。これは陸奥国府が多賀城に移転(724年)するより早い。そして最上郡は現在の玉造地方に隣接しているから、

 「名取地方」→「多賀城」→「玉造」 といった南から北への流れとは別に、

 「最上」→「玉造」といった西から東への

 奥羽山脈を越える「大和化」の流れがあったとするなら、多賀城より早い時期に「丹取郡」が現在の玉造地方に置かれたとしても不思議ではない。
 さらに、玉造地方と古川市の境界付近には「名生館官衙遺跡」がある。この遺跡からは多賀城より古い7世紀末頃の四面庇付瓦葺の建物を中心とする官衙中枢部が発見されている。この事実は、丹取郡がやはり玉造地方にあったとの印象を強くさせる。
 いずれにしても、現在では丹取郡は名取地方ではなく、玉造地方(旧古川市にほど近い場所)にあったとするのが、現在の通説となっている。

▼丹取郡の地名の由来(湿地に囲まれた場所か?)
 丹取と名取が別の場所にあったするならば、地名についても「丹取(ニトリ)」と「名取(ナトリ)」は別名であると受け取ることができる。
 一般に名取(ナトリ)はアイヌ語の「ニタッ(湿地)ウトリ(間)→ニトゥトリ」に由来すると言われることが多いが、その解でいくならば丹取(ニトリ)のほうがより「ニトゥトリ」に響きが近い。

 もっとも、「ニトゥトリ」的地名は他にも多く、丹取郡が分割して置かれたと推測される新田(ニッタ)柵(地元では「ヌッタ」と発音、現在の登米市西部、続日本紀737年初出)や、新潟市の渟足(ヌッタリ)柵(同647年初出)がある。
 また岩手県の二戸地方には、似鳥(ニタドリ)があり、これはさらに「ニトゥトリ」と響きが近い。

 次に、「ニタッ(湿地)ウトリ(間)」といった地名の意味、つまり「湿地に囲まれた場所」といった地形の特徴を考えれば、名取市近辺は低平地で名取川といっ規模の大きい河川もあり、川に形成された後背湿地も多くあっただろうと推測される。このため名取=「湿地の囲まれた場所」はうなずくことができる。
 新潟の「渟足柵」も信濃川の河口付近にあったとされるので、これも名取と同様の例であろう。
 玉造の「丹取」については、近隣に江合川や鳴瀬川といった大河川はあるにはあるが、低平地と言うよりは扇状地に近く、地形と地名の整合はちょっと弱い。ただし、もう少しだけ東方に目を向ければ、そこに化女沼があるから「湿地に囲まれた場所」と言えなくもない。

 登米市西部の「新田」付近は北上川水系が盲腸のように後背湿地を形成する一大湿地帯で、現在でも水害の被害を受けやすい地域である。そして伊豆沼、内沼、長沼、蕪栗沼といった湖沼群があるから、これはまさに「湿地に囲まれた場所」と言って良いだろう。
 二戸の「似鳥」については、残念ながら、その地形の特徴を語るだけの知識は無い。

 このように、いずれの地名も「ニタッ(湿地)ウトリ(間)」で解けなくもないが、そもそも日本は「豊葦原の国」であり「湿地に囲まれた場所」は数多くある。そのため、先に紹介した地名が「ニトゥトリ」であるかどうかは、地形との関係以外にも、もう少し別の角度から検証材料がほしいところではある。

 アイヌ語地名の本場、北海道では弟子屈町に「仁田(ニタ)」という地名があり、これはそのまま湿地と解されている。

(出典)北海道庁/アイヌ語地名リスト

▼丹取郡の地名の由来(赤土粘土の土取場か?)
 先に、丹取の地名由来をアイヌ語で考えてみた。これは「丹取」の音からのアプローチであるが、一方で「丹取」という文字を表意的に考えれば、「丹土(はに=陶瓦の材料としての粘土、赤土)を取る場所」とも解される(「奥羽古史考証」藤原相之助著)。
 本ブログ著者は、丹取という地名にはアイヌ語由来説を採るが、この赤土土取場説も魅力的であり、心から離れない。というのは、かつて丹取郡があっとされる玉造地方の周辺には、奈良時代前半における陸奥国最大の官窯と言われる色麻町の「日の出山瓦窯跡」や大崎市古川の「大吉山瓦窯跡」があるからである。
 先に紹介した「名生館官衙」や「多賀城」もこれらの瓦窯から生産された瓦を用い、建立している。

▼丹取郡のその後
 713年に設置された丹取郡であるが、続・日本紀によれば

 717年以前、陸奥国の管轄する所は、柴田・名取・宮城・志太・黒川・加美・玉造等の諸郡なりとあり、さらに737年、多賀柵、牡鹿柵、新田柵、色麻柵、玉造柵を置くと記されている。このように丹取郡は発展的に分割されていったようである。
 以後、これら諸郡は宮城県の行政区域として現在まで引き継がれることになるが、このような急速とも言える変化が生じた原因として注目されるのが、

715年 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の、富裕な民1千戸を陸奥国に移し住まわせた。

 といった記録である。このような過程を経て、「まつろわぬ(服従せぬ)」蝦夷の地は、次第に大和文化に取り込まれいったのであろう。

【記:平成21年10月25日】
【本ブログ転載:平成22年12月11日】



▼参考文献
 「続・日本紀(上)」 宇治谷 孟 訳 (H4.6.10 株式会社 講談社 発刊)
 「宮城県地名考」 菊地勝之助 著 (S45.5.15 株式会社 宝文堂 発刊)

 田んぼに関わる専門用語と、田力つながりで用いている用語を解説します。
 下記の説明文中「黒」で記す部分は一般的な認められた事項を、「青」で記す部分は、本ブログ著者が解釈している事項を記載しております。

 
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