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「火怨」をミリタリー的に考察する『大和朝廷VS古代東北 三十八年戦争』 


 以前、紹介した『火怨』では、蝦夷の戦いを小説の世界でイメージをふくらませてくれた。今回紹介する『大和朝廷VS古代東北 三十八年戦争』では、軍事学的側面から、蝦夷の戦いを考察している。
 これを掲載しているのは『歴史群像2月号』で、ミリタリー色の強い歴史雑誌である。BS時代劇で『火怨』が始まったが、今回特集は、それの便乗であろう。
 この特集では、基本的史実をたどりながら蝦夷と大和朝廷の戦いを解説していくが、随所にミリタリー的解説が加わり、私の知的好奇心を唸らせていく。

例えば

「地図を見ると、九州南端の鹿児島、同西端の長崎、海を隔てて朝鮮半島の金海、そして多賀城などが、朝廷の主都であった平城京や長岡京から半径600キロメートル圏の内外に存在する。このラインこそ、当時の大和政権が統治を可能としていた地域の限界であり、圏内の支配地がすなわち日本だった。」


 といった具合だ。ミリタリー的知識を持つ者ならば、このような大和政権の圏域を半径距離で示す記す意図が、兵站(ロジスティック)にあることは容易に想像がつくであろう。
 8世紀における大和朝廷の蝦夷征伐が宮城県中央の多賀城から始まり、岩手県中央の志波で停滞したが、これも兵站ラインが限界に達したと考えれば、科学的にも合理的な解釈ができそうである。
 ちなみに、別のページでは「太平洋戦争の絶対国防圏」が特集されており『歴史群像』では、このような視点から、各時代の戦記物に視点を向けているのである。

 もう少し内容を紹介してみる。蝦夷最大の戦いとなった巣伏の戦い(785年)では、下記のような考察がある。

「はじめに朝廷軍の総兵力は5万2800余人であったと述べたが、あとに発せられた紀古佐美の奏上文から、実際に出陣した軍勢は2万7470人、他に輜重兵が1万2440人、これらを合わせても4万人弱の兵力だったことがわかる。そのうち、甲冑を装着した兵士は『続日本紀』に記された甲冑の製造数や輸送数から推測するに数千人であり、大半は地方から徴募された員数合わせの兵隊で、敵地での野戦では、ほとんど役に立たなかった。」


 そして朝廷側の正面兵力をおおよそ2千と推測し、アテルイ率いる蝦夷軍が大勝した巣伏の戦いの解説が続くわけだが、蝦夷軍の正面兵力は朝廷側に記録がある。その内訳は囮となる遊軍が3百で、主力軍が8百、合計で1千を少し越える程度であった。
 これは朝廷軍の半分程度となるが、この数字を見て朝廷軍有利と判断するのは素人であり、ミリタリー的知識があれば、即座に蝦夷軍有利と判断できるはずだ。

 なぜならば、この戦場は朝廷軍にとってアウェイであり、蝦夷軍にはホームとなる。攻め入る側は、守る側の三倍の兵力を用意せねばならないのが「攻撃三倍の法則」であるが、その朝廷側には二倍程度の軍勢しかない。これでは数が足りず、朝廷軍の負けは必然となる。

 むしろアテルイ率いる蝦夷軍が、これだけの軍勢を集めるだけの経済力を有していたことは刮目に値し、経済学的視点による蝦夷社会の実態解明が待たれるところであろう。
 何より、自軍が有利な地点まで朝廷軍を誘い出したアテルイの戦略と諜報力が勝利の要となったであろうことは論を待たないし、自らの大地を守ろうとする蝦夷軍と、嫌々徴募されながら大地の果てまで連れてこられた朝廷軍とでは、そもそもの志気が違ったはずである。

 今回の特集では、朝廷軍の弓は曲射で射るが、蝦夷軍のそれは直射で威力が大きかったことなど意外な史実にも触れられていて興味深いが、コラム欄にあった兵站線にかかる分析は、大和朝廷と蝦夷の抗争史を考察する上で重要な基礎データとなるので、以下に記録しておく。

 延暦8年(789)6月9日の奏上文を見ると、朝廷軍の蝦夷征伐が、補給との戦いであったことがよくわかる。距離について補足すると玉造柵-衣川間は約50km、衣川-志波間は約75kmなので、進撃速度は1日あたり12.5kmとなる。
 玉造柵-衣川柵の往復で10日、輜重兵が一度に輸送でくる兵糧は11日分しかないということは、衣川の進撃までに輸送した兵糧をほぼ消費してしまうので、それ以上の進撃は無理だと訴えているのだ。
 征伐軍2万7470人が1日に食する兵糧が549石ということは、1日の消費量が実に1人当たり2升に相当する。だが、明治陸軍でも支給米は1日に6合であり、あきらかに支給量が過多であることから、兵糧の横領が横行していたと考えられる。


 在野の歴史学は、未だ博物学的なレベルに留まっている印象を受ける。もっとマクロ経済学や軍事学、地政学的視点を加えれば、今まで不明だった史実が、さらに明らかになるのではないかと前々から感じているが、今回紹介した『大和朝廷VS古代東北 三十八年戦争』の特集は、そのような思いを前進させてくれる意味で、大変貴重な特集であった。



注)上記のうち、茶色部分は、『歴史群像(2013年2月号)-大和朝廷VS古代東北 三十八年戦争』(発行:学研パブリッシング / 該当部分:福田 誠 著)から引用しております。




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カテゴリ : 蝦夷の歴史
2013-01-27(Sun) | コメント : 0 | トラックバック : 0

旧石器捏造事件(宮城県北での出来事) 


 もう過去の事件となり、忘れ去られつつあるが、十年以上前に、宮城県を舞台とした旧石器発掘捏造事件がある。この事件は、宮城県でも県北地方が主な舞台で、私の生活圏内とほぼ重なる。
 今一度事件の概要を述べるが、宮城県北地方をフィールドとして活動した在野のアマチュア旧石器研究家に藤村新一氏がいた。彼の実績は、考古学の常識を覆して、金字塔を打ち立てるが、しかし、その実績の多くは捏造であることが暴かれる。これにより、日本の考古学会の権威は、著しく失墜したのである。

 今月の『新潮45号2月号』(石の嘘塔-藤村新一の「大発見」-上原善広 著)では、この事件の経緯と背景を綴っている。

 この事件を振りかえって痛感せずにいられないのは、考古学研究者なるものの、意外なほどのプロ意識の欠如だ。それは、名誉欲にとりつかれたアマチュアの捏造行為を、ついに見抜けなかったことで裏づけられる。

 もちろん、物事を捏造する人間は良くないが、そのような人間は世の中にいくらでもいる。そしてその捏造は、必ずしも悪意により為されるばかりでなく、人間関係の延長から生じる『善意』で為される場合もあるからやっかいだ。しかし、それを見抜くのがプロではないのか?

 以前紹介した偽書「東日流外三郡誌」事件では、さすが奇天烈すぎて、一部大学の研究者を除き、このような奇書に飛びつく学術研究者はいなかった。しかし、この旧石器捏造事件では、既存の考古学の権威そのものが、捏造石器にお墨付きを与えてしまっていたのである。

 私は以前、自然保護関係の活動をしていたこともあり、その分野に関係する学術研究者と意見交換したり、調査データを提供したことが少なからずあった。このような自然保護分野の研究フィールドは、研究室内だけで全うできず、市井の人々と意見を交わしながら研究が進められる場合が多いようだが、その際に、学者のプロ意識の有無について考えさせられる場面にしばしば出会った。

 一般にこのような学者は、自分の研究分野における何らかの仮説を検証するため、野に入る。そして、自らの仮説を補強できる事象に出会えれば成果ありだが、森羅万象は、そんな単純ではない。自分の仮説と反対の事象と出くわすことも多く、むしろ、そっちのほうが多かったりもするものだ。

 そのような時に、その学者のプロ根性が試されるわけで、あっさりと自説を撤回する学者は潔いが、それだけでは根性に欠ける。なぜ自分の仮説と異なる事象が生じているのか、相手は市井の人々だったりするので、頭を下げつつ、しかし人様への疑いを持って、何事かを調べ廻らねばならない時もある。
 場合によっては賛同者や既存の権威と相反する行動もとらねばならぬ場面もあるが、そういった際には「共感力」とか「人間力」とか、そのような人間本来が持っている優しい心が邪魔をする。あるいは、野に入ってから今まで自分が蓄積してきた様々な意味での「財産」を失いたくないとする、弱い心だって芽生えてくる。

 しかし、これらを乗り越えて、おぼろげだった事象が始めて明らかになっていくわけで、これができるかどうかが学術研究者のプロ根性となろう。私が出会った中で、でここまで出来る研究者は限られていたように思う。自分達の派閥や仲間内の空気の中で安穏としている人も多いし、それ以前に、自分の仮説と反対の事象と出くわしても、その事象を認めなかったり、わかったようなわからない屁理屈でその場を煙に巻こうとする輩も少なくない。

 話しは、旧石器発掘捏造事件に戻る。

 この事件では、考古学の定説覆す発見が相次いでいた以上、当然、藤村氏の実績に疑いを持っていた研究者は少なからずいたはずだ。そうであれば、早いうちから、その「事象」を明らかにする努力をしておくことで、毎日新聞に先を越されず、学術団体自らが捏造事件を暴くことが可能だったはずだが、それが出来なかったのである。

 この問題の本質には石器の年代測定といった高度な技術的課題があったとは思えない。「共感力」や「人間力」、蓄積してきた財産喪失の恐れ、そういった人間の弱い心にのみ、問題の本質があったように感ずるのである。


 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
2013-01-26(Sat) | コメント : 0 | トラックバック : 0

偽書「東日流外三郡誌」事件 



 古代日本、縄文の正統的伝統を受け継ぐ荒覇吐王国があり、西から進出してきた大和政権と対峙していた。荒覇吐族は阿倍氏と名を替え、大和政権との争いは続いたが、徐々に北に追いやられるが、青森県津軽地方の十三湊に拠点を構え、海上貿易で富みを築く。しかし、その繁栄は突如襲った津波により消失した。この秘史は津軽地方の農家の天井裏から発見された膨大な古書に記されており、これを東日流外三郡誌と言う

 言うまでもなく東日流外三郡誌(以下『外三郡誌』と標記)は偽書である。その内容は誇大妄想で、冷静になってその内容を読めば(冷静にならずとも)、信ずるに足るものでないことが良く理解できる。
 種を明かせば、この「外三郡誌」は詐欺的骨董職人が自ら筆を執った捏造古書であり、その顛末が『偽書「東日流外三郡誌」事件』(以下『偽書事件』と標記)で丁寧に紐解かれている。それにしても、なぜこのような、偽書を少なからずの人が信じたのか?『偽書事件』では次のように記している。

「青森県人、そして東北人の歴史的コンプレックスにつけ込んだのが『外三郡誌』なのです。」(偽史 研究家 原田実)

 確かに東北、特に青森・秋田・岩手の北東北の歴史は、日本の中にあっては大和政権の力が及ぶのが遅く、続日本記など正史への登場も遅かった。このため鎌倉時代以前の記録が不明確であり、それゆえに正史とは別の、何か別の秘史があったのではなかったかと想像をかきたてるものがある。
 そしてまた、その秘史にこそ、辺境と言われた「みちのく」の尊厳が隠されているのではと、期待を抱かせてしまう面が確かにある。

 もう一つ、『偽書事件』によれば、

「素晴らしい東北の自然と歴史を、大和朝廷の侵略によって台無しにされたという論理は東北人の心情に入りやすい」(聖和学園短期大学教授 千坂嵃峰)


 この感情については、東北人が抱くものというより、むしろ東北の外から東北を見つめる人々において、より強い思いを抱かせる感情ではなかろうか?
 例えば『偽書事件』では、昭和末期におけるオカルトブームの時流に乗ったのが『外三郡誌』だったとしているが、隠され秘史というテーマは、東北内外にかかわらずオカルトマニア一般にとって興味がそそられる対象であったろうし、同様に大和朝廷といった中央に地方が侵略されたという構図は、左翼市民勢力活動家が入り込むにも、好都合なテーマだったように感じられる。
 そしてもう一度、東北人自らに視点を戻せば、このような『外三郡誌』を取り巻く怪しげブームに便乗し、これを村おこし活動に利用しようとした、思慮の足りない動きがあったことも、肝に銘じおくべきだ。

 それにしても、『外三郡誌』は罪深く、この偽書は漠然とした古代東北の歴史をオカルト的好奇心の対象としてしまい、結果として一層古代東北の姿を不明にした。

 今一度東北の歴史に目を転じると、宮城北部では奈良時代末まで、岩手県では平安時代中期頃まで蝦夷の暮らしが色濃く残っていたが、除々に大和文化に染まっていった。それでも前九年後三年の役を経て、平安末期頃には蝦夷の血を継いだ平泉文化が華開くが、これも源頼朝に滅ぼされ、東北の地は鎌倉武士団により割譲されるに至る。
 
 つまり大和政権、鎌倉政権と二度に渡り、東北の歴史は断絶しており、それ以前の歴史に不明な部分が多くなったが、考古学にも民俗学にも、その歴史を少しでも明らかにする手だては遺されている。
 また、このような学術的成果を待たなくとも地域の民話、暮らし、風習にも古代蝦夷の伝統は東北人のスピリットに引き継がれているはずであり、そこからも「いにしえの蝦夷」をたどる手だては残されているはずであろう。何も『偽書』の力など借る必要はないのである。



 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
2013-01-02(Wed) | コメント : 1 | トラックバック : 0

二風谷のアイヌ家屋 

 今年9月に北海道を旅し平取町を訪れました。

 平取町と聞き「『崖の間』か・・・」などと、ほんの少しだけアイヌ語地名を理解できる知識は身につけてはいたが、車で走り、周囲の地形を見回しても「崖の間」といったほどの急峻な地形には出くわさない。

 もう少し走ると二風谷ダムの看板が見えてきた。もしかしら「崖の間」はあのダムの底に沈んだのかな?とも思った。

 この二風谷にはアイヌ資料館があり、見学させていただきました。



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P9260220.jpg




 アイヌの家屋です。

 東北地方の民家とアイヌの民家に何か共通ししているものがないかと思い、興味深く見学させていただきました。もし、そこに何か共通性があるならば、それはかつて東北にあった蝦夷文化の名残だと考えたからです。
 
 しかし屋根の部分に、若干だけ似通った趣があるものの、なかなか東北の民家とアイヌの民家に共通性は見いだせませんでした。

 東北地方の北半分は奈良~平安頃まで蝦夷の勢力が強かったわけで、そのため現在でも東北地方には、北海道と同じアイヌ語で解ける地名が数多くあります。

 しかし、必ずしも蝦夷=アイヌというわけではなく、鎌倉時代以降は蝦夷の勢力が途絶えつつあった東北に比べ、北海道の蝦夷?は時にオホーツク文化の影響を受けながら、また生活の糧を鮭漁に特化させていきながら、独自の文化的発展を遂げていきます。
 そして、アイヌの民家「チセ」にも、このオホーツク文化の影響が見られることは、下に紹介する本「アイヌの歴史」でも紹介されています。

 もともとは、同じ文化を共にしていたと思われる東北の蝦夷と北海度のアイヌ、しかし一方は大和の文化に同化していき、一方はオホーツク文化の影響を受け、それぞれの道を歩んでいったのでしょう。



P9260218_20101213232237.jpg



 アイヌ民家の内部です。
 基本的に釘は使わず、丸太と丸太をロープで縛り付け、組み合わせているようです。

 凹凸のホゾで構造材を組み合わせている様子もありませんが、泥壁も板も使わず、床がないのも日本家屋との大きな違いです。



P9260224.jpg




 アイヌの祭具「イナウ」、神様への供え物で、一本の棒から削り出し作ります。

 これとよく似た風習は宮城県にもあり、やはり神様への祭具として一本の棒から削り出します。
 民家からはなかなか共通性が見いだせなかった東北文化と北海道アイヌの文化でしたが、イナウのような風習からは、互いの共通性が見いだせました。
 
 まだ他にも共通する文化が見つけられるかも知れません。





 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
2010-12-14(Tue) | コメント : 1 | トラックバック : 0

多賀城の東「貞観津波と蒲生干潟」 

 多賀城の東方には塩竃港があるが、多賀城の盛衰としてより重要なのが七北田・砂押川の河口である。
 かつてこの河口には、湾と見間違えるほどの広い水面があったはずである。


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奈良時代頃の多賀城周辺の地形(想像図)




◆貞観津波
 多賀城の前身である郡山が大津波で崩壊しただろうことは多賀城の立地と地名で記した。これは西暦700年代初頭と想像されるが、西暦869年、再び大地震があり巨大津波が多賀城周辺を襲った。これを貞観津波と言う。

 六国史の「日本三代實録」には、この貞観津波の記録がある。これを簡単に紹介してみる。

  5月26日、陸奥国に大地震あり。
  人、伏して起きあることできず、
  崩壊した建家の下敷きになり、圧死する人々、
  地割れに脚をとられ、もがく人々。
  牛馬はあてど無く駆け廻り、
  崩壊した城郭、倉庫、門櫓、城壁、数えきれず。
  海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。
  瞬く間に城下に至り、海より数十百里を遡る。
  原野、道路、瞬く間に霧散し、
  船に乗れず、山に登れず、溺死者一千ばかり。
  それまでの資産、殆ど無に帰す。

 郡山と違い、多賀城は高台にあったから津波の難を逃れることができた。しかし、その城下の繁栄はことごとく失われたようである。
 多賀城の城下街は七北田・砂押河口の舟運の利もあり、大きく繁栄していたようだが、それが瞬く間に消滅した。

 貞観津波は現在の国道4号バイパス付近(海岸から5km程度)まで押し寄せたようで、現在の利府や岩切も大きな被害を受けたであろう。

 仙台市では平成17年度に宮城県沖地震により想定される津波の遡上シュミレーションを行っており、これによるとやはり海岸から5km程度、津波が遡上する結果が得られている。

 現在は、河川堤防が嵩上げされているから、貞観津波に比べれば、津波の脅威は小さくなったと言える。もっとも、当時に比べ十数倍の人間が貞観津波の浸水域で生活してはいるが。

◆蒲生干潟
 さて、現在の七北田川河口付近が江戸時代に付け替えられたことは、多賀城の周囲で紹介した。
 しかし、これは自然の理に反した付け替えであったようで、七北田川は常に砂州の閉塞に悩まさ続けたきた。川が運ぶ土砂で、河口が埋まっていくのである。
 そのため七北田川河口には広々とした砂浜が形成されたが、その後、上流にダムが建設され、土砂の排出が安定した。
 また仙台港の開港により、七北田川はさらに南側に付け替えられ、これが結果として河口部に干潟を創出させるに至った。これを蒲生干潟と呼ぶ。

 干潟には浅瀬が広がり、これが広大な葦原を生む、そして葦は育っては朽ちてを繰り返し、多くの有機物を干潟に堆積させる。この有機物を潮の干満が分解する。

 分解された有機物は干潟に守られ海に流出せず、その代わり、膨大な量の低生生物を涵養し、これがさらに多くの生き物を扶養していく。

 つまり干潟では壮大な生命再生産エンジンが稼働しており、豊かな自然があるのだが、ただし蒲生干潟は、七北田川の付け替え、ダムの建設、港湾の整備により生み出された人造の自然の宝庫でもあるのである。

◆自然保護と開発
 現在、蒲生干潟では津波防災のため、堤防の築造が行われている。仙台平野が常に津波に襲われてきた歴史を思えば、堤防の築造は、そこに住む住民にとっての生命線となろう。

 一方で、河川の付け替えやダムや港湾建設の結果として生み出された自然の宝庫、蒲生干潟に生息する自然環境を維持するため、開発は最小限に抑えるべきとの考えもある。

 過去から現在まで続く七北田川河口の開発は、意図せざる結果を生み、そこに住む人々の生活に少なからず変化を与えていくようである。


061f1a38.jpg

蒲生干潟



【記:平成21年11月21日】
【本ブログ転載:平成22年12月11日】

 
カテゴリ : 蝦夷の歴史
2010-12-11(Sat) | コメント : 0 | トラックバック : 0
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