スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 
カテゴリ : スポンサー広告
--------(--)

利府町郷土資料館 


 利府町は多賀城政庁のすぐ西北側にある。その地形は、東西に延びる穏やかな丘陵地の南側にあり、そして丘陵の北側には続日本紀が伝える「黒川以北十一郡」がある。

 利府町の東北側には名古曽川が流れるが、これは「勿来(なこそ)の関」の名残であり、蝦夷の地への入り口だったと伝えられる。これから考えると「黒川以北十一郡」とは即ち、蝦夷の地を一括として総称したもののように思われる。

 このような地理的位置、地形的特徴から利府町には古代の遺跡が多く、『利府町郷土資料館』には奈良時代頃の遺跡を多く展示している。



rifukyoudo001.jpg



rifukyoudo002.jpg



rifukyoudo003.jpg

古墳から発掘された勾玉(複製品)



rifukyoudo006.jpg

瓦窯跡操業の様子



rifukyoudo005.jpg

大貝窯跡24号窯跡復元模型


 利府町の発掘される窯跡では、多くの瓦や須恵器を多賀城政庁に供給した。利府町の春日には春日大沢窯跡群があるが、この地域からは赤土が得られ、このような地質的特徴も古代の窯業を盛んにした要因だったと思われる。



rifukyoudo009.jpg

大貝窯跡から発掘された鉄滓



rifukyoudo007.jpg

製鉄炉跡



rifukyoudo008.jpg

中世の製鉄の様子


 中世において、宮城県内で発掘される製鉄炉跡は少なく、利府町にある大貝窯跡は貴重な遺構となる。



rifukyoudo010.jpg

硯沢窯跡から発掘された土器



rifukyoudo011.jpg

この土器には「宮城郡」と刻まれている。



rifukyoudo012.jpg

こちらは宮木と刻まれている。



rifukyoudo013.jpg




 さて蝦夷の地「黒川以北十一郡」のすぐ南側には、宮城郡が置かれた。初見は西暦766年で、現在の仙台市宮城野原区から若林区付近を指したらしい。
 「宮城(みやぎ)」という地名は、その地の民から徴収した穀物を備える朝廷の建物「屯倉(みやき)」が語源とされる。

 つまり、かつての宮城郡は、租穀を納めるなど律令体制の早い時期から朝廷に服属していたわけだが、その北側には、体制になじまぬ「まつろわぬ民」、蝦夷の地「黒川以北十一郡」があった。

 このような古代の挾間に利府町はある。その地の遺跡は言葉少なげだが、かつてそこに住んだ人々の葛藤を今に伝えている。

 利府町郷土資料館、ご一見あれ。



スポンサーサイト
 
カテゴリ : 蝦夷の記憶
2013-04-28(Sun) | コメント : 0 | トラックバック : 0

案内の謎(4)「沢を降った先にあったもの」 


  案内を「反対側の沢」とした場合、そのような地名を名付けるべき基点は、小田原丘陵を挟み案内沢と反対側の場所となる。それを仮に泉区の市名坂付近とすれば、そこから案内川の向こう側にあったものは何だったのだろうか。

 まず、思いつくものに多賀城がある。ただし市名坂からの方向で言えば、多賀城は小田原丘陵の反対側と言うよりも七北田川の下流端であり、必ずしもその行程に案内を経由する必要がない。むしろ案内への経由が必要となるのは、多賀城の前進であり仙台市郡山にあった陸奥国府であろう。

 この国府は600年代半ばに築かれたようで、多賀城が開かれる724年まで国府として使われた。さらに近隣にある南小泉遺跡からは、弥生時代から古墳時代まで続く大集落跡が見つかっており、近隣の富沢遺跡からは大規模な水田跡も見つかっている。
 つまり、この地域は相当古くから大和式の文化が及んでいたことが想像されるのであり、案内沢の向こう側には、大和文化の地があったと考えて良いわけだ。その意味でも「案内」は、最南端のアイヌ式ナイ地名であったのかもしれない。



PB070139.jpg

PB070148.jpg

 遠見塚古墳 、宮城県仙台市若林区遠見塚にあり、南小泉遺跡に隣接する。4世紀末~5世紀初めに造られたと推定され、全長110mの前方後円墳である。名取市にある雷神山古墳と併せ、大型前方後円墳の限界線に位置する古墳とされている。


 もう一つ、案内の向こう側にあったものがある。それが田子だ。

 かつて田子は多湖と呼ばれ、大小無数の沼があったであろうことは以前のブログに記した。そこは鮭など様々な生物を育む楽園であったと記したが、狩猟が重要な生業であった蝦夷にとっても、そこは楽園であったはずである。

 それほど古い時代に遡らなくとも、1970年まで田子から案内沢にかけては日本最大級の雁の飛来地があった。その後、国道4号バイパスの建設や、水田に農道が整備されたことで雁は飛来しなくなったが、このように私達人間の生活は、自然の環境を改変しつづけているのである。

※仙台市から消えた雁の飛来地については『雁よ渡れ』(2006.2.16、著/呉地正行、どうぶつ社)において、「福田町の悲劇」とし紹介されている。

 いずれにしても、小田原丘陵の向こう側には大狩猟場があり、かつての蝦夷たちは、案内沢を目印にしながら、その狩猟場に向かったのではないか。
 そして、その狩猟場は郡山遺跡付近に広がっていた大和文化の人々が生活する場所にほど近かった。そのため蝦夷と大和の緩衝地帯となり、蝦夷たちは、常にはそこで生活しておらず、鮭が遡上する秋から渡り鳥が多く飛来する冬にかけ、季節労働的に、その狩猟場に向かったのではなかったかと想像したくなるのである。



Emi6.jpg

 宮城県北にある伊豆沼の早朝、ガンの飛び立ち。この伊豆沼のある地域は現在でも国内屈指の雁の飛来地になっている。



 全ては、案内周辺地形の特徴や史跡から想像するストーリーでしかない。それでも、そのストーリーを想像する過程で、かつてあったはずの様々な風景がありありと蘇ってくるのである。地名には、そのような力が備わっている。

 さて、かつて清流の流れがあったと思われる案内沢の周囲は都市化が進んだ。この地域は仙台市中心部にほど近く、東北本線が通じるといった交通の便の良さから、割と早い時期から開発が進んだようである。現在でも東仙台の街並みには昭和の風情が残る。
 そして、それゆえにこの地域は下水道の整備が不十分なままの都市化が進んだようで、案内沢が注ぐ梅田川やその支流の藤川では、都市化による水質の悪化が問題とされてきた。
 この水質問題を解決するため、市民の有志の呼びかけにより、梅田川の水質浄化の試みが続けられている。「案内」の先にあるもの、それは時代の変化とともに、変わっていくようである。




DSCF1331.jpg

DSCF1325.jpg

DSCF1337.jpg

DSCF1341.jpg

 梅田川浄化会による河川浄化イベント、毎年1千名に近い参加者により、河川の浄化活動が行われている。



 
カテゴリ : 蝦夷の記憶
2013-03-17(Sun) | コメント : 0 | トラックバック : 0

案内の謎(3)「周囲の地形」 


 なぜ特別に案内を「反対側の沢」と呼んだのか、この確証作業を行う前に、まずは案内周辺の地形について、もう少し考察を深めてみたい。
 この周辺の地形については「梅田川を行く 前編(河川編)編者 佐藤昭典 平成9年8月1日発行」が詳しく、そこから引用してみる。

 この付近は小田原丘陵東端に位置し、後期更新世に現在の梅田川と広瀬川が一つの流れをつくり、形成された段丘である。
 その地質は、表面が粘土質に覆われ、その下に礫層があり、井戸水が豊富であった。その恵みを受けたためか、『塩松勝譜』(1822年、仙台藩の儒学者 舟山万年著)では、案内の湯豆腐が名高かったと伝える。
 小田原の玉田横野の名称地、その豊かな地下水は豊富の清水を生み、それら湧水を集めたのが小松島であり、安養寺池であった。




walkingonumedaliver.jpg

 仙台市東部を流れる都市河川、梅田川を工学的・歴史的視点から考察、地域学にとって重要な視点が各所に散ればめられている。仙台市内各所の図書館で借りることができます。



 先に、案内沢の水源が安養寺にある大堤沼(先に紹介した安養寺池とは別の沼)にあると記したが、この付近には人造のため池が多くある。
 大部分は江戸時代以降に造成された農業用のため池と思われるが、背後の流域が限られ、それゆえに雨水を集水するには効率の悪い地形にこのような多くのため池が築かれたのは、その地にあったわき水の利用を期待しての試みであったろう。



emi5.jpg

 案内沢の水源となる「大堤沼」のすぐ南側にある「与兵衛沼」、この沼から流れる沢は、沼からほぼ真南に向かい、梅田川の支流となる藤川に合流する。


Emi3.jpg

 「与兵衛沼」て羽根を休める白鳥、周囲が住宅地に囲まれた一角だが、このような風景も残る。



 さて、この案内沢の丘陵に新興住宅地が無かった頃、さらに昔に遡り、ため池さえ築かれていなかった頃の風景を思い浮かべてみよう。
 そこには山の斜面のところどころから湧き水が流れ、それが細々とした流水を作り、そして時として小さな沼を形成している。それがさらに丘陵を降って案内沢となった。その風景は以前ブログで紹介した音無の風景のようではなかったか。

 当時の蝦夷は、この案内沢を目印にして小田原丘陵を下っていったのかもしれない。

 「反対側の沢に来た、これを下ろう。」

 などと声を交わしながら。そうだとしてもなぜ、当時の蝦夷は、案内沢とは反対の地から丘陵を登り、そして沢を下っていったのだろうか?



Emi1-1.jpg

 案内沢の水源とな大堤沼、新興住宅地の中にひっそりとある。



Emi1-2.jpg

 大堤沼から注ぐ沢、これが「案内」沢の起点となる。



 
カテゴリ : 蝦夷の記憶
2013-03-17(Sun) | コメント : 0 | トラックバック : 0

案内の謎(2)「アイヌ語説と反対側の沢」 


 もう一つ、アイヌ語地名の大家、山田秀三も「案内」を考察している。山田によると単にアンナイをその音だけで考えるなら、

 アク(矢を射る、弟、浅い)+ナイ(沢)
 アム(爪、寝そべっている)+ナイ(沢)
 アム(休憩する)+ナイ(沢)
 アン(鷲取り小屋、我らの)+ナイ(沢)
 アプ(釣り針)+ナイ(沢)
 アル(反対側の)+ナイ(沢)
 アッ(おひょうにれ)+ナイ(沢)


 などの組み合わせが挙げられるとしている。

 ただし、いずれも北海道に同類の地名が無く、これら組合の地名確証が得られなとしながらも、アンナイに比定される沢(安養寺の大堤沼を源流とし高野川となって梅田川に合流する流れ)が、泉区市名坂側から見れば、小田原丘陵を越えた向こう側にあるため、

 アル(反対側の)+ナイ(沢)

 がアンナイの由来ではないかとの考えを示している。



Emi2.jpg

 鶴ヶ谷中央公園にある「大堤」ため池、国道4号バイパス鶴ヶ谷交差点から東仙台方面に通じる4車線道路沿いにある。このため池は、案内沢の水源となる「大堤沼」と近い位置にあるが、分水嶺を挟んで北側にある。そのため池から注ぐ沢は、北側に流れ、案内沢と方向が逆である。




 今でも「案内」付近はドライブの近道で、泉区方面から、かつて案内の地名のあった東仙台方面に向かうためには、このバイパスを南下するよりも南光台からの裏道を通ったほうが渋滞も少なく距離的にも近い。
 これが、まさに「反対側の沢を下るルート」であり「案内=反対側の沢」は車を運転していても納得できる解だ。さらに現在では、このルート沿いにあらたな幹線道路が通じたため、「反対側の沢」はドライバーにとって、助けになるルートである。

 ただしである。

 案内が反対側の沢となるためには、その地名を呼んだ主体(かつて宮城県にも勢力を誇っていた蝦夷?)にとっても、反対側にあらねばならない。
 そして、そもそもそのような裏道的ルートは案内ばかりでなく、ほかにもいくらでもあるはずだ。
 にもかかわらず、なぜ特別に案内を「反対側の沢」と呼んだのか、その必然性を考察せねば、案内=反対側の沢を確証するには至らない。


 


 
カテゴリ : 蝦夷の記憶
2013-03-17(Sun) | コメント : 0 | トラックバック : 0

案内の謎(1)「最南端のナイ地名」 


 前回紹介した仙台市宮城野区「田子」、ここから西に向かい丘陵地帯にさしかかる場所に「案内」という地名がある。もっとも度重なる住宅開発により、「案内」の地名は消えつつあるが、現在の東仙台や苦竹がある付近は、かつて案内前とか案内南などと呼ばれていた。

 この案内という地名は、「内(ナイ)」というのがアイヌ語で言うところの沢(ナイ)と一致し、それゆえに「案内」もアイヌ語で解ける地名ではないかと考えられることが多い。もしそうだとするならば、案内はアイヌ語地名研究において注目されるべき地名である。

 それは、現在確認されているところ、この地名がアイヌ語の内(ナイ)地名として、日本の最南端に位置するからである。

 東北地方に残るアイヌ語地名は、青森県、秋田県、岩手県には多く残るが、宮城県北部の江合川以南から少なくなり、仙台市あたりまでくると、アイヌ語(らしき地名)にさえ出会えるのは、まれである。

 そのような位置関係にあって、仙台市内にズバリ「内(ナイ)」地名があるわけだが、しかし、「案内」が本当にアイヌ語地名かどうかを裏づけるのは確証が無く、「内(ナイ)」はともかくとして、「案(アン)」をどう解くかが謎のまま残っている。

 この「案内(アンナイ)」をどう解くべきか・・・まずは基本資料をおさらいしてみよう。

【百姓が道案内】

「宮城県地名考」(菊地勝之助)から引用してみる。

「伝える所によれば天正十八年の昔、伊達政宗が岩切城(高森城)を攻めようとした時、この地の百姓が道案内の役を務めて戦いを有利に導いたというので、爾来この地を案内と呼ぶようになったということである。」

これが一説、そして

「藩政時代に仙台を訪れる顧客をこの地に送迎して案内したのでこの名が生まれた」

 をもう一つの説として紹介している。

 後者の説について菊地勝之助は、この街道筋にのみに当てはまるわけではなかろうと疑問を呈している。そして金田一博士の「北奥地名考」において、案内はアイヌ語から出たものではないかとの説を紹介し、アイヌ語の解説を続け、これを支持している。



emi0.gif



 
カテゴリ : 蝦夷の記憶
2013-03-17(Sun) | コメント : 0 | トラックバック : 0
弊ブログおすすめ
本ブログ登場の方々がお届けします

 農薬を使わないお米、肥料を使わないお米を宮城県から全国に発送します。

B_kumattkofarm.gif

仙台市秋保から無農薬野菜をお届けします。

【2012年産の新米 出荷開始】

B_fureaiS.gif

 いにしえの品種、その野性味が自然栽培でよみがえります。
宮城県色麻町から

【2012年産の新米 出荷開始】

B_bamboo_20120319235249.gif

 自然栽培のササニシキを天日干しにしてみました!おてんとの味わいをお楽しみください。
宮城県色麻町から

【2012年産の新米 出荷開始】

B_woodartbag.gif

 でんでんむしむしカタツムリ、自然栽培の六次産業を目指します!
宮城県石巻市和渕から

プロフィール

2010tariki

Author:2010tariki
【問い合わせ先】

メールは以下の
「A+B+@+C」
になります。
A=tarikino
B=tunagari
C=infoseek.jp

検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。