気仙沼市の街並みと復興の眺め(その2)
(その1から続く)
被災地の復興が遅いとの批判を良く目にする。確かに遅く感じられることも多いが、しかし「早急なる結論は必ず過ちを含む」との教訓もある。
震災後、1年間は、まずは生活の仮復旧に全力が注がれ、街の復興を考えるには、様々な事物や条件が流動的であった。
1年経ち、ようやく自らの街を考えるゆとりが出てきたが、それまでにいくつかの復興事業が、スピリットとは別のところでいくつか起動し始めていた。それは各省庁毎に計画される復興事業であったり、被災地支援を目的とした大学や各種民間団体の街づくり構想であったりである。
震災2年目は、それら様々に起動し始めた取り組みと、地域のスピリットとの「すりあわせ」に要する動きが復興の主体になったと思う。一様にコンクリートの壁に覆われる防潮堤計画に意義を称えた気仙沼市の有志で取り組まれた「防潮堤を勉強する会」なども、その現れだったのではないか。
地域に根を張ったスピリット、それは金太郎飴の如く、どこでも同じように提供される国家行政基準と合致するものではないし、外部から訪れる一時的滞在者により生み出されるものでもない。
そこに住む人間自らが、その存在に気づき、そして反芻し、さらに体系化することで、外部の人間に表現しうるスピリットが確立される。
「漁民はね、根は一匹狼でね。なんたって、自然にある魚を穫る穫らないかは、自らの力量に係っているわけでね。」
「だから、基本は競争社会なんですよ。隣人の話し合いで物事を決めてくのがあんまり得意じゃない。だから、○○組合って言われてもね~、う~ん?どうかな?」
過去、何百年と漁業を主体に生きてきた伝統があり、物事の考え方も、この伝統をベースとして培われている。それを変えろと言われても、おいそれと、と言うわけにはいかない。
気仙沼市に限らず、日本の漁業に関する課題は多い。そのことは、今回の震災を通じて浮き彫りとなったが、「業」としての形態は時代の変化に対応していかねばならないが、それにより培われてきたスピリットを変えるのは容易ではない。むしろ、それをもって、新たな時代に対応したほうが得策である。
先に紹介した「防潮堤を勉強する会」この勉強会は、見事に行政を動かした。そのやり方の根底には、気仙沼なりのスピリットがあったように感じられる。漁業の街には、漁業の街なりの復興のやり方があるのだ。
震災からの復興とは、ローカルスピリットが何であるのか、真剣に考えさせられる出来事でもあるのかもしれない。
被災地の復興が遅いとの批判を良く目にする。確かに遅く感じられることも多いが、しかし「早急なる結論は必ず過ちを含む」との教訓もある。
震災後、1年間は、まずは生活の仮復旧に全力が注がれ、街の復興を考えるには、様々な事物や条件が流動的であった。
1年経ち、ようやく自らの街を考えるゆとりが出てきたが、それまでにいくつかの復興事業が、スピリットとは別のところでいくつか起動し始めていた。それは各省庁毎に計画される復興事業であったり、被災地支援を目的とした大学や各種民間団体の街づくり構想であったりである。
震災2年目は、それら様々に起動し始めた取り組みと、地域のスピリットとの「すりあわせ」に要する動きが復興の主体になったと思う。一様にコンクリートの壁に覆われる防潮堤計画に意義を称えた気仙沼市の有志で取り組まれた「防潮堤を勉強する会」なども、その現れだったのではないか。
地域に根を張ったスピリット、それは金太郎飴の如く、どこでも同じように提供される国家行政基準と合致するものではないし、外部から訪れる一時的滞在者により生み出されるものでもない。
そこに住む人間自らが、その存在に気づき、そして反芻し、さらに体系化することで、外部の人間に表現しうるスピリットが確立される。
養殖筏も増えてきた。平成24年は良質のワカメが豊漁だったが、本格的な養殖の復興はこれからである。
「漁民はね、根は一匹狼でね。なんたって、自然にある魚を穫る穫らないかは、自らの力量に係っているわけでね。」
「だから、基本は競争社会なんですよ。隣人の話し合いで物事を決めてくのがあんまり得意じゃない。だから、○○組合って言われてもね~、う~ん?どうかな?」
過去、何百年と漁業を主体に生きてきた伝統があり、物事の考え方も、この伝統をベースとして培われている。それを変えろと言われても、おいそれと、と言うわけにはいかない。
気仙沼市に限らず、日本の漁業に関する課題は多い。そのことは、今回の震災を通じて浮き彫りとなったが、「業」としての形態は時代の変化に対応していかねばならないが、それにより培われてきたスピリットを変えるのは容易ではない。むしろ、それをもって、新たな時代に対応したほうが得策である。
先に紹介した「防潮堤を勉強する会」この勉強会は、見事に行政を動かした。そのやり方の根底には、気仙沼なりのスピリットがあったように感じられる。漁業の街には、漁業の街なりの復興のやり方があるのだ。
震災からの復興とは、ローカルスピリットが何であるのか、真剣に考えさせられる出来事でもあるのかもしれない。
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気仙沼市の街並みと復興の眺め(その1)
東日本大震災が過ぎ、二度目の冬を迎えた。
仕事の関係もあり、被害を受けた宮城県の気仙沼市や岩手県の陸前高田市を訪れる機会が多い。3月11日の震災後、ガソリン状況が悪化し、何事においても自家用車での移動が困難になったが、4月に入ると、それも改善していった。
震災後、始めて気仙沼市を訪れたのは、ゴールデンウィークの頃である。街全体がほぼ壊滅した南三陸町や陸前高田市に比べれば、気仙沼市の街は大部分が無傷のように思えた。
これは私が国道45号を通りながら市街を眺めたからである。気仙沼の街は海に面したわずかな平地を丘陵が取り囲み、そのさらに山際の外周を45号が取り囲む。このように45号は高台にあるから、その沿線を通過するだけなら、被害を受けた街に出くわすことが少ない。甚大な被害を受けたのは、気仙沼港周縁にある。
震災当日、気仙沼港大火の映像がテレビで流れた。
「なんだこれは???これでは、気仙沼は全滅じゃないか・・・」
そう、つぶやいたことを思い出す。その火災は気仙沼市の鹿折地区が中心であった。現在、この地区には津波に打ち上げられた大型漁船が残置されている。そしてこの漁船を今後も残置し、震災のモチーフとする動きがあるが、異論は多い。
街の風景であるが、平成23年の夏頃には廃墟となった建物が残ったままだった。現在(平成24年12月)は、そのような廃墟の撤去も進み、基礎コンクリートだけが残る「平場」の風景となっている。
震災直後から現在までいずれの時点でも、始めて被災地を訪れる者は、その被害の甚大さに驚くが、ずっとそこで風景を眺めている者であるのなら、
「道路が通れるようになった。」
「瓦礫が片づいてきた」
「被災建屋が無くなってきた。」
「基礎撤去も進んできた」
「再建中の建屋もちらほら出てきたな」
と、少しずつであっても、復興のベクトルが感じられるかも知れない。
ある日、気仙沼港を訪れたら、「大きな船が多いですね~」、そう九州の同僚がつぶやいた。
気仙沼港に戻る漁船も増えてきた。気仙沼の復興は、この地域の漁業及び水産加工施設の復旧にかかっている。漁業こそ、この街のスピリットである。
(その2へ続く)
白川郷/岐阜県大野郡白川村荻町
9月15日、お昼過ぎに白川郷に到着。
青い空を、しばしば灰色の雲が遮る。そろそろ天気は雨天に傾きつつあるようだ。それでも行楽にはうってつけの休日であり、白川郷には多くの観光客か訪れている。
世界遺産に登録され、その名も知られた白川郷である。
往来する人の賑わいから、この白川郷には相応の観光的経済効果がもたらされていることが想像できる。それが白川郷の景観を守るため、少なからず貢献しているはずだ。
もう二十年近く昔のことになるが、深夜のラジオに耳を傾けていた時のことを思い出す。白川郷かどこだったか、何にしても合掌造りの家屋保存について、女性知識人が声高に訴えていた。
曰く、合掌造りは現代生活を送るのに不便だからと改築が進み、伝統的風景が消えつつあると。そして女性有志者は次のように自分の主張を続けた。
「生活が不便だからと伝統的風景が改築されるなら、法律で改築できないようにする必要がある。過激だけど、そうしないと伝統的風景は守れない。」
確か、そんな内容だったと思う。
その主張に反感を感じた。
年に数回訪れるかどうかわからない人にとっての『伝統的風景』、自らは存分に現代文明の利便性を享受しながら、その数日の感傷的風景のために、そこで生活する人の切実な思いを否定する。
茅葺き屋根の葺き替えには数百万の費用がかかる、当時の私にそれだけの知識は無かったが、それでも、伝統的家屋で生活するための苦労は大きいのだろう、そう想像するだけ頭はあった。
この課題を解決するための安易な方策として、国が家屋の集落を買い上げ維持し、官営のテーマパークとするもののがある。いわば国立公園の集落版といった考えだ。
しかし、自然任せの景観が対象となる国立公園とは違い、集落には生きた人の生活がある。それがあって始めて集落の景観が維持されはずであろう。
国が「不動産」を買収し、それを維持したところで、人の暮らしや営みまで管理することはできない。仮に何らかの補助政策でそういった暮らしを再現できたとしても、山村で暮らす人間の伝統や知恵や心意気、そういった諸々の「スピリット」まで管理することは不可能だろう。
そこまで、思い、気がつくことがある。
街を眺めて、感ずる風景とは、その地で生きてきた人々のスピリットの現れなのだと。
もし何らかの伝統的風景を守っていこうとするのなら、まずは、そこに住む人々のスピリットがなんであったのか紐解くことが必要である。そして、そのスピリットが明らかになるのなら、次に、それを現代経済にアダプトさせる工夫を試みる。
このような過程の先に、ローカル経済の再生があるのだと思う。
馬籠宿/岐阜県中津川市
妻籠宿を後にし、馬籠峠を越えると馬籠宿に到着する。
妻籠宿には、まだ出店が開く前の時間に訪れた。しかし馬籠宿を訪れる頃には、おみやげ屋が開店し、観光客も増えていた。道行く人の姿も多い。
馬籠宿は、明治・大正の大火により、その時点で残っていた家屋はあらかた焼失したようである。
そのためかどうか、妻籠宿に比べれば、家の造りが新しい。一方で妻籠宿ほどの風情は残らないが、馬籠宿には活気がある。
それゆえに、馬籠宿の景観は、地域経済の自立にも大きく貢献しているのだろう。
『生きた伝統文化』、それが守られるには、その伝統的文化が地域の中で経済的に自立していることが必要である。その意味で、馬籠宿には生きた伝統文化が残っているのかもしれない。
しかし、若干だけ違和感がある。それは馬籠宿の風景が、山形の蔵王や宮城の鳴子といった温泉街と同じように感じたことだ。
始めて訪れたはずの馬籠宿だが、さほど新鮮味を感じなかったのはなぜなのだろう。
妻籠宿/長野県木曽郡南木曽町
9月15日、朝、長野県南部から白川郷に向かう。
車窓から見える風景は中山間の連続で、石垣の棚田が多い。
そろそろガソリンの残量が気になり始め、視線はガソリンスタンドの看板に向くが、なかなか見つけられない。街道筋の街並みはに人影は少なく、そのまま街を通り抜けた。
山道を越え、小さな集落に入ると、ようやくガソリンスタンドを見つけ、給油した。
「仙台から来たの?」
店主と思わしき婦人が愛車のナンバーを見て尋ね、そして続けた。
「津波、大変でしたよね。」
それに微笑で答え、「ここから妻籠宿までどれくらい?」
と尋ね返すと、店主は「10分くらい」と応じた。そして親切に、いろいろと妻籠宿までのルートや、見所等を教えてくれた。
よくぞこれだけの風景が残っていたものだと思う。
それと共に、ここで生活してる人は、自らが住む家に対し、どのような思いを抱いているのか興味を抱いた。
グローバリズムに駆逐され、廃れゆく地方経済の新たな道筋を探るためには、その思いにこそ、ヒントが眠っているように感じるのである。
もう少し、旅を続ける。